自著の「25 合わせる――和して同ぜず」を読み返しました。抜粋しコメントを添えます。

『論語』に「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」という言葉があります。「和する」とは「協調すること」で、「同ぜず」とは「主体性を失わないこと」です。友達と力を合わせ、なおかつ自分らしさを失わないこと。これは幼児教育の理念に合致します。

孔子の言葉ははるか昔のものですが、「君子」を「お手本となる人間」、「小人」を「お手本とならない人間」と言いかえれば、その言葉の意味はぐんと身近に感じられるのではないでしょうか。「小人は同じて和せず」とは、「小人」は表面的に周囲と「同調する」だけで、心は必ずしも他人と「調和しない」と理解できます。大人の世界に目を向ければ、そのような例は枚挙にいとまがありません。

肝に銘じたいことは、大人の態度一つで「同調する」子どもの数をいくらでも増やすことができるということです。必要以上に厳しくしつければよいのです。子どもたちは大人の目を気にし、周囲と調和している「ふり」をするようになるでしょう。そうした姿勢が常となれば、人としての「自信」がないまま大人になります。

孔子の言葉はじつに逆説的です。「同じ」という言葉は日本人にとってつい「いいね」を押したくなる殺し文句ですが、孔子はさすがに手厳しいです。「同ぜず」とはむきになって他との差別化をはかっているという話ではなく、先日来書いている「オンリーワン」のことだと思えば理解しやすいです。ただし生まれつきのオンリーワンプラス後天的努力によって自分の資質を向上させたうえでのオンリーワンという含みをもちます。

「和する」には、「同ぜず」の部分が重要です。そのためのキーワードが、「自信」です。大人が陥りやすい過ちは、「他と比べて自分は秀でている」という意識を子どもに植え付けようとすることです。それでは真の自信は得られません。他との競争に一喜一憂する生き方だと、「上には上がある」という意識、言い換えれば、「自分は常に劣っている」という意識を常に抱かざるをえないからです。一人一人にそのような意識があるとき、互いに力を合わせて協調することは難しいでしょう。

本当に自信のある子は、他人と競って自分のポジションを誇示しようとせず、「自分は自分(のやり方でよい)」と思っています。自己肯定感を育むには「好きなもの」を持つことが第一歩です。折り紙であれ、砂場遊びであれ、鉄棒であれ、時を忘れて取り組める何かを持つ子は、日々自信を深めていきます。他の子とワイワイ遊んでいなくても、その子はけっして孤立しているのではありません。クラスの子どもたちは、その子の真摯な姿勢を見逃さず、黙って敬意を表します。

「競争」の是非に関して昨日も言及しましたが、数学者岡潔氏の言葉をあわせてご紹介します。「私は義務教育は何をおいても、同級生を友だちと思えるように教えてほしい。同級生を敵だと思うことが醜い生存競争であり、どんなに悪いことであるかということ、いったん、そういう癖をつけたら直せないということを見落していると思います」。何十年前の悲痛な心の叫びです。個人の感想として、私が高校二年の時から導入された共通試験(当時は共通一次試験)導入以降、「勉強イコール競争」という意識が徐々に徐々に教育界に浸透し、いまではその意義を疑うことは誰にもできない一つの常識として定着したように見えます(昔は「受験戦争」という言葉もよく言われ、「勉強イコール競争」という学びの態度を強く問題視する社会の風潮が根強くあったのです)。ちなみにノーベル賞を受賞された益川 敏英氏は共通一次試験のことを「教育汚染」と批判されました。今の若い世代の人にはこのシステムのどこがそんなに問題なのかピンとこないと思いますが、それだけ学校での勉強の意味がこの半世紀で変わったのだと個人的には思います。

どの幼稚園にも運動会や生活発表会があります。そのねらいは、子どもたちの「和する」心と「同ぜず」の精神がクラスとして花開く機会を提供することです。クラスが心を合わせて一つのことに取り組む姿勢がもっともよく見て取れるのが、年長児の運動会のリレーと劇の発表です。

このうち生活発表会のことについて私は以下のように書いています。

年長の三学期には「劇の発表」を行います。この取り組みを通じて、めいめいが「和して同ぜず」の精神を経験します。クラスの男女比、人数を考慮に入れ、脚本は私が書きます。全員が小学生顔負けなほどのセリフを覚え、舞台の上で演じるのです。私は、毎年劇の練習を始める前に、次のことを子どもたちに伝えています。「劇は、一人だけが頑張ってもよいものにはなりません。全員が心を合わせて<台詞の受け渡し>を最後までやり遂げなければなりません。運動会のリレーと同じです。リレーをしているとき、自分の役目が終わったからと言って、観客席に戻りませんね。最後の最後までクラスの全員で走っている人に声援を送ります。劇も同じで、自分が演技をするときも、ほかのお友達が演技をするときも、同じ気持ちで一生懸命練習に取り組んで下さい」と。

私は主役、わき役、善人の役、悪人の役を作りません。それでも、どの役がいい、という個人の好みは、きっとあるでしょう。しかし、「どの役もなくてはならない」ことを伝え、「力いっぱい自分の役を務めて、心に残るよい劇にしよう」と話すと、子どもたちは納得します。練習が始まると、様々なドラマが待ち受けます。ドキドキして人前でセリフを言えない子もいます。それでも練習の中で、「家で頑張って練習してきたんだな」と誰もがはっきりわかるほどの「成長」が感じられるとき、クラスの全員から自然と拍手が送られます。そのたび、私は子どもたちの互いを支え合う心の温かさ、友情に感激します。

そして迎える本番。みんなが一つになって舞台を作り上げるぞ!という子どもたちの熱意と演技が観客の胸を打ち、最後のフィナーレで割れんばかりの拍手が送られます。「和して同ぜず」の子どもたちが、幼稚園生活の最後に手にすることのできる最高のプレゼントが、この保護者からの拍手喝采なのです。

ここで文は終わっています。ひとつ補足すると、劇に関しては、幼稚園の先生と、子どもと、保護者(+小学校以上のごきょうだい)の三者が心を一つにしてがんばる最初で最後の機会になっているということで、三者が文字通り力をあわせてこそ思い出に残る劇が完成します。私も担任とともに全力を尽くします。年長保護者におかれては、どうかお力添えをたまわりますようよろしくお願いいたします。

追伸
劇の練習を親子で取り組む姿勢こそ、小学校の学びに対する最高の助走になると確信しています。

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