手をつなぐことと言葉を交わすことの二つ。

初対面に近い年少児と心を通わせるには、この二つが最も大切です。

無言で子どもの信頼を勝ち得ることはありえません。

信頼の「信」の字は、「人が言う」と書きます。

子どもがどんなに泣いても、心を込めて穏やかに言葉を発すれば、必ず子どもは心を開きます。

泣いている子を抱き上げ、手足をバタバタさせるとき、最初は何を言っても聞く耳をもたないかのようです。

子どもは「家に帰る!」、「お母さんがいい!」と何十回、何百回と耳元で訴えます。

その都度、私は「えらいね。がんばってきたね」と何度も何度も繰り返し言います。

はたで見ていると、根競べのようです。近くにいる年中児、年長児から「(泣き声が)うるさい」というクレームを聞いたことは今まで一度もありません。

事情を十分理解し、かたずをのんで見守ってくれています。

一方泣いている子どもは、激しく泣いた場合、この先生は厳しく叱るのか、どうするのか、試しているのかなと思ったりします。

ひとしきり泣いて落ち着いた頃、「歩こうか」と言って地面におろすと、何事もなかったかのようにすたすた歩くこともあります。

多くは、また大泣きする、というケースです。そしてまた抱っこするということの繰り返しです。

ただ、「歩こうか」の言葉がけは重要です。

結果的にまた抱き上げることになったとしても、最初から「どうせ降ろすとまた泣くだけだ(だから抱っこし続けるほかない」と思って抱っこし続ける場合とは違って、前向きなアクションが間に入ることで子どもは「期待」や「信頼」という言葉の一端を学び始めるのです。

書くと長くて複雑になりますが、実際にやっていることは単純な話です。

そして、どの子も早かれ遅かれ自分の足で歩くことを選択し、1キロ程度の道のりであれば、やがて苦も無くそれを実践できるようになるのです。

実際の声と心の声と。私たち幼稚園の先生は両者の乖離がないように、心で「がんばれ」と応援し、言葉でも動作でもそれを応援し続けます。

そのうち、互いが信頼の二文字で結ばれるようになります。大人の心に子どもを信じる心があれば、子どもは必ずそれに応えます。

以上が「言葉」の話です。次は「手」の話です。

大人の手は長く、子どもの手がちょうど届く高さに手を差し出すことができます。

子どもの手が短すぎると、大人はずいぶんしゃがまないといけません。これだと長い距離は歩けません。

大人も幼児もお互いにとってちょうどよい手の長さなので、1キロの道も無理なく手をつないで歩けます。

大人と手をつなげても、年中、年長児と手を繋げないケースはよくあります。

無理せず、「またね」と言うように促す場合があります。年中、年長児には「ごめんね。今練習中だから」と理解を求めます。

今日はいけそうだ、と思ったときは、私の五本の指の半分で年少児とつなぎ、残りの指で年中・長とつなぐことから始めます。

歩き出して打ち解けてきたら、自然と年少児は私でなく年上のお兄さん(orお姉さん)とつないでいる、ということはよくあります。

握手もそうですが、手をつなぐことは平和の象徴です。

手をつないで歩いているうちに、最初は緊張した顔をしていた子どもも、だんだん明るい表情になります。

年少児の手をつなぐ年中、年長児は自分の1年前、2年前のことをよく覚えていて、涙する年少児の気持ちは誰よりよく理解しているようです。

涙顔が笑顔になるのを見ながら「よかったね」と口に出すこともあります。学年を問わず、子どもたちは送迎を通じて大事なことを学んでいるのだと思います。

古いヨーロッパの格言に「手は手を洗う」という言葉があります。

片手だけで手は洗えない。二本の手があってこそ、相互に洗い合うことができる、という意味です。

相互扶助を象徴する表現です。

我々のやっていることは、「手は手をつなぐ」と表せるでしょう。

一人ではけっして「手をつなぐ」ことはできません。

相互に手をつないで助け合っている、お互いがお互いにとって必要不可欠な存在である、ということになるでしょう。

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