以下、教育を巡る雑感です。

胸を痛める物騒な事件が多い。いきなり事件が起こるのではない。どんな幼稚園児代を過ごしていたのだろうか。大学生が事件を起こし、学長がわびる気持ちもわかるが、何か釈然としない。

三つ子の魂百までというように、幼児期に甘やかさず、社会のルールを身につけておかないとしわ寄せは大きくなって訪れる。

幼稚園で出来ることは少なくないが、幼児教育の主役はやはり家庭であると思う。

夫婦で方針をよく話し合うこと。それぞれに意見があるわけだが、二人の考え、価値観の接点を互いに尊重するのが重要。折を見て、父が子に人としてあるべき姿、とるべき行動について語るべき。

父が家にいる時間は短いが、母は「お父さんはそんなことをしなさいと言っていましたか?」と言うだけでよい。母の言葉を通し、子は父の言葉を聞く思いがする。

子育てに悩む親はたいへんだと思うが、悩むことは愛することと同じである。

子育てを放棄したらさぞ楽だろうが、しっぺ返しはかならずくる。

子どもを甘やかさないということの意味は、実践を通じて社会のルールを覚えさせ、責任ある行動を経験させることを意味する。

子どもが本来できることとして、自分の足で歩くこと、お使いをすることなど。

その他、子どもが自分の力を試し、人の協力を得、人と力を合わせ、社会(家庭や園の仲間)の中で自分が人として必要とされているという自覚をもてるような仕掛けを親は工夫すること。(幼稚園はそのチャンスを公平に提供する場所。)

子どもを厳しく育てるこつは、子どもに厳しく接することではない。

子どもと約束したルールの前には、親も子も区別はないということ。親も我が身を厳粛に振り返るべき。

親や大人が自分の中にある「甘え」(まっ1回くらい、ちょっとくらいいいか)の意識を捨てること。

テレビやビデオ、ゲームは子守ではない。飲酒やクルマの免許と同様、元来、年齢制限すべきものと思われる。

少なくとも、チャンネルの選択には親が絶対的なイニシアチブを握らなくてはならない。

子どもの情操教育のため、親が見るような番組が、子どもにとってどれだけ刺激過多かを想像しなければならない。

小学校以上に上がれば、「勉強」のチャンスも当たり前のように与えてはならない。

「自分は親の(体面の)ために勉強してあげている」という思い上がった意識を助長しては絶対ならない。

親自身が学校で「学ぶこと」の本当の意味を自分の経験に照らしてよく考えておかなければならない。

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