「幼児教育」というと早期教育をイメージする向きもありますが、私の園では力いっぱい遊ぶこと、これを大切にしています。日本語の「遊び」の定義は曖昧で、個人によってイメージする内容にバラツキがあるようです。

同じことは「勉強」という言葉についても言えます。例えば、多くの日本人に「勉強の反意語は?」と尋ねると「遊び」という答えが返ると思いますが、これは不幸な誤解です。

「遊びは勉強」であり、「勉強は遊び」なのです。これは日本語では言葉遊びに聞こえますが、欧米の言語においてはそうではありません。日本語の「遊び」は受動的な時間つぶしも含みますが、英語のプレイやラテン語のルードゥス(遊び)は、スポーツや音楽、芝居その他の能動的かつ文化的な活動を意味します。

一方、「勉強」と訳される英語のスタディは、元を正せば「情熱、熱意」を意味するラテン語のストゥディウムに遡ります。「義務」としてやらねばならないものというニュアンスはなく、一心不乱に何かに取り組む姿勢を表す点で、「勉強」と「遊び」は表裏一体です。つまり、小学校以上の「勉強」も、幼児のように夢中になって「学ぶ=遊ぶ」ことが可能であり、また、本来そうすべきだということです。

なぜラテン語まで持ち出すのか、といぶかしく思う人もいるかもしれません。理由は、日本が明治以降取り入れた欧米の学校制度の理念は、彼らの文化の源流(ギリシア・ローマの文化)に由来するからです。

教育制度の問題を考える上で、欧米社会が古典から受け継いだ理念が何かを知る必要があるということです。その根っこの上に幼稚園を含む近代的な教育制度が果実として誕生し、今に至ります。

我が国は、明治開国直後にその果実を「すばらしい」と思って輸入したわけですが、根っこまで掘り下げることなく、単に制度という「形」に惚れ込んでそれを取り入れたため、日本の教育はいまだに迷走を続けていると私は見ています。

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