力があると思うゆえに力が出る

『山びこ通信』2015年度春学期号より、巻頭文をご紹介致します。

「力があると思うゆえに力が出る」

山の学校代表 山下太郎

 表題はウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』(5.231)にみられる表現です。

船による競技が最大の盛り上がりを見せる場面で、勝利を確信し全力を尽くすトロイアの漕ぎ手たちについてこういわれます。

このとき、喚声は倍に高まる。あとから追う船に全員が
熱烈な声援を送り、天空が割れんばかりの叫喚が響く。
こちらでは、栄光は自分たちのもの、栄誉は手中のもののはず、
手にできぬは恥、誉れのためには命を賭してもよい、と思う。
こちらには僥倖が力を与えている。力があると思うゆえに力が出る。
(岡道男、高橋宏幸訳、京都大学学術出版会)

下線部に当たる元のラテン語(Possunt quia posse videntur.)は、「自信があればこそ実力が発揮できる」という趣旨の名句として、今も欧米で用いられます。ウェブで調べると、英訳の They can because they think they can.も人口に膾炙しているようです。これを日本語で平たく訳せば、「できると思うからできる」となります。実に簡単明瞭。表現の点でも内容の点でも子どもにもわかります。

と思いきや、この言葉が名言として受け止められるのは、やはり内容が逆説的だからだと思います。以下は表題の言葉にヒントを得たエッセイです。

大人の常識に照らすと、「できると思うからできる」のではなく、「実力があるからできる」のであり、単に「思うだけではダメだ」となるでしょう。「努力」が強調されるのはそのためです。しかし、これは大人に通用する正論であり、子どもの場合は自信が何より大切で、それさえあれば実力は後からいくらでもついてくる、と私は思います。

子どもは人生経験が少なく、大人の目から見ればできないことだらけです。しかし、大人と違うのは挑戦する心で満ちあふれていることです。「面白そうだ。よし、やってみよう。自分にもできるはず」。これが子どもの自信であり、何かに挑む心がまえです。思えば、赤ん坊のときにも言葉を発したり、一人で歩けるようになったり、子どもは挑戦の連続で成長していきます。しかし、そのような自信や挑戦する心も、いつかどこかでしぼんでしまう可能性があります。あるいは逆に成長と共に自発的な努力を伴いながら、いつまでも輝き続ける可能性もあります。

この違いを生むポイントは何なのでしょうか。人生行路は様々な要因が複雑に絡むため、詳しいことは誰にもわかりません。ただ、私は幼児教育に携わる者として、何かに挑戦しようとする子どもに対し、周囲の大人がどのような態度を取るのか――自信をくじくのか、自信を守るのか――が決定的に大きな影響を与えると考えます(それゆえに幼児教育は重要な意味を持つと信じます)。

このことについて、一郎先生(先代の園長)は「ぐう・ちょき・ぱあ――完全を求める親――」(『山下一郎遺稿集』所収)というエッセイの中で、子どもの自信を守るコツを次のように述べておられます。

「今できないことを性急に求めるよりも、今できていることをまず認める。これが、わが子にやる気を起こさせ、自信を持たせるコツです。」

大人にとって子どもの未熟を指摘し、努力を命じるのは容易ですが、それは「今できないことを性急に求める」ことにほかなりません。「今できていることをまず認める」。大人にはなかなかこれができません。一方、大人が「今できていることを認める」なら、子どもは次のステップに向かって挑戦する気持ちになれるでしょう。

すでに何度か書いていますが、かくいう私がそうでした。小学校の低学年の頃、テストで70点をとったとき、一郎先生(父)は「7つできて70点ということは、100点と同じことだ」と励ましてくれたのです。私は時間内に10問中7つしか手をつけられませんでしたが、「手をつけた7つの問題のように残りを頑張れば、次は8つできるかもしれない」と。嘘のような本当のような記憶でしたが、上に挙げたエッセイの中に「70点は100点よ」という小見出しがあり、そこを読むと子どもの名前こそN子ちゃんとなっていますが、「ああ、これは自分のことだな」と合点できるエピソードが記されていました。

父がそこで展開する議論は明快で、大人の完全主義が子どもの自信とやる気を阻害する、というものです。

「初めから完全でなければと意気込みますと、あとで完全になりうる力を持っていても、実力をついに出し切れず低迷してしまうということは、よくあることです。何事にも、じっと待つ、こころのゆとりが大切かと思います。『親は完全でない。まして子どもが完全であるはずがない』。この気持ちが根底にあれば、子どもにもっとゆとりを持って接することができるのではないでしょうか。」

このこととの関連で申し上げると、小学校の勉強については、大人が100点(=山頂)の位置に立って子どもを手招きするのではなく、0点(=ふもと)の位置から一緒に山登りを楽しんでほしい、と思います。そして、本当の勉強はここからここまでと範囲を限定するものではない以上、学校が「ここまでできたら100点」と決めた地点も通過点として軽やかに乗り越えて頂きたい、つまり、親も子どもとともに好奇心を輝かせ、どこまでも学ぶ気持ちを持ち続けて頂きたいと願います。大人がチャレンジする気持ちを失って、どうして子どもにそれを要求できるでしょうか。

学びの山を一歩一歩登る子どもとともに、自分も寄り添って一緒に学び直す気持ちを持てることは、大人にとっても幸せなことです。山頂からふもとの子どもを手招きするイメージでは、いらだちが増すだけです。子どもと一緒に立ち止まって景色を眺めたり、足下の草花を愛でたりしながら一歩一歩登るには、たしかに「心のゆとり」が不可欠ですが、それは学びの厳しさに対して「甘い」態度を取ることとは異なります。

以前にも書きましたとおり、私は小学校の高学年になるまで漢字の書き取りを父に見てもらいましたが、あるとき、口頭で出題された漢字について、一瞬「ん?」と考えてから正解を書いたことがあります。それを正解にカウントしてもらえず、「やりなおし」のリストに入れられたことが不満で、「ちゃんと書けた」と主張したのですが、「自分の名前がスラスラ書けるようには書けなかった」といわれたことがあります。学校の集団教育とは違い、家庭教育においては、こうした一人一人の指の動きや息づかいまで細心の注意を払って見守ることが大事であり、それはマンツーマンなら十分可能である、という一例です。

今、山の学校の母体である北白川幼稚園では、園児一人一人の「挑戦する心」を大切にし、毎日鉄棒や縄跳び、竹馬などに取り組んでいます。そこで最も大事な鍵となるものは、今例に挙げた意味での保育者の「目」であるといえます。それは子どもたちの一挙手一投足をていねいに見守り、ほめどころと励ましどころを正確に見極めるものでなければなりません。

子どもたちを励ますとは、けっして「がんばれ、がんばれ」と連呼することでも、やみくもに褒め続けることでもなく、昨日は鉄棒でここまでしか足が上がらなかったのに、今日はさらに上まで足をけり上げるようになった等の変化を正確に見極め、それを本人に伝えることです。

丁寧に見れば、子どもたちは毎日驚くほどの変化を遂げ、日々成長しています。しかし、その一つ一つの歩みは、見る目をもたないと「平凡」なものにしか見えません。目の前の課題を乗り越えようとして本気で打ち込む子どもたちが何より欲するのは、自らの挑戦の軌跡をそばでていねいに見守る大人の目です。私はそう信じ、目の前の園児たち、山の学校の子どもたち、さらには「子どものように」好奇心を輝かせる大人の人たちに接したいと願い、同じ志を持つ先生たちとともに日々試行錯誤を繰り返すのみです。道半ばではありますが、私たちの取り組みを応援してくださるすべての人とともに、これからもこの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。(山下太郎)