2021-04-20 山の学校の学びをめぐって──古典をめぐる随想──

山下です。

山の学校は「楽しく学べ」をモットーにしていますが、自分で「よしやろう!」と思って古典に挑戦することは「難しいからやりがいがある」世界に挑むことです。

幼児を見ていると、どの子も「難しいことにやりがいを見出す」精神に満ちています。

試験にも一定の意義はありますが、大人がそれを目標にして子どもたちを競わせるとき、とたんに「やりがい」は見いだせなくなり、勉強の一切がいやいややらされる行為に早変わりします。

本人任せにするとろくなことをしないと大人は主張しますが、それは子どもに対する失礼な見方であり、一般論を述べると事実は逆です。

大人こそ率先して学びの手本を見せなければなりません。

子どもの自主的な学びの精神を曲げるのは大人による競争原理の導入に原因があり、極論すると子どもの自主的な挑戦を大人はそばにいていつも「この子はいつもおもしろいことに取り組むなあ」と見守っているだけでよいのです。

ただ、それだけでは遠回りをする可能性もありますので、できるなら、おもしろいことをやる先達といっしょにおもしろいことに挑戦する時間を過ごせるよう配慮するのがよいでしょう(山の学校はそのような場を目指しています)。

親が学びの挑戦者なら、子どもはその姿を黙って模倣します。学校の成績は眼中に入れる必要はないでしょう。いずれ自分でギアを入れる日がくれば、勝手に成績の帳尻も合わせる力も発揮できます。

おもしろいことをとことん学ぶ経験がなければ、どんなやり方を試しても、短期的には功を奏しても、長期的に見ると、やがて勉強に気持ちは向かなくなるでしょう。

大事なことは、本当におもしろいことがなにか、信頼できる先生と一緒に経験することです。

古典とは信頼できる先生と同じです。2千年間読み続けられた作品は、一時の流行りでなく、無限の「いいね」に彩られた人類の先生です。

子どもたちにとって、信頼できる先生といっしょに古典を読む場があれば、それにまさる学びの経験はないと私は思います。

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