山の学校の学びをめぐって──古典をめぐる随想──

山下太郎

日ごろ園児たち(年長児)に俳句を教えていて実感することは、子どもは古典が好きだということである。二週間に一句のペースで芭蕉や蕪村、一茶の俳句を紹介し、全員で復唱する。正座し、黙想するところから俳句の時間は始まる。初代園長(祖父)から続く本園の伝統的スタイルである(今年で61年目)。私も園児と一緒に黙想し、俳句の言葉を声に出しているとじつに清々しい気持ちになる。

新しい俳句を紹介するときは、それ以前の俳句を復習してから行うので、園児たちは年間を通じてかなりの数の俳句を覚えることになる。やがて見よう見まねで自作の俳句を作る者も現れるが、その作品を皆の前で紹介すると、「ぼくも」、「わたしも」と新たな「俳句」が集まってくる。「守・破・離」という言葉があるが、繰り返し「型」に親しめば、おのずと「型」を破る力もわいてくる。

古典は「試験」や「評価」とからめない限り、申し分のない教材だと思う。内容がわからなくてもよい。子どもたちは何度も音読するうちにすぐに暗唱できるようになる。「子守唄」がそうであるように、断片でも古典を覚えていることは、大人になって初めてその懐かしさ、ありがたみに気づくのである。

暗唱について付言すると、テストのために暗唱しなければならないというのと、気がつけば覚えていたというのとでは、古典に対する印象に雲泥の相違がある。実際のところ、暗唱に耐えるものだけが古典として継承されている。私たちが古典と聞いて「堅苦しい」という印象を持つのは教え方(学び方)に問題があった証拠である。古典は教えないといけないものではなく、教えずにいられないものである。子どもの頃、古典を学んでありがたかったという感謝の思い出が、私たちをこの伝統の継承へと駆り立てる。古典教育とは、世代を超えた感動・感謝のタスキリレーといってよい。

このリレーに関していえば、イニシアチブは大人の側にある。大人が古典への尊敬を失えば一巻の終わりである。逆に大人がその気持ちを失わない限り、子どもが古典を学ぶチャンスは守られる。残念ながら、今はそのチャンスが年々失われつつある。感動、感謝、尊敬。これらはルールの縛りによって保持される性質のものではなく、頼みの綱は一人一人の大人の自覚である。いつの頃からか子守歌は聞かれなくなり、TVやビデオが本の読み聞かせに代わってしまった。「そういう時代だから(仕方がない)」と考えるのか、「そういう時代だからこそ(守りたい)」と思うのか。

ちなみに「そういう時代」に人は自分の足で歩かなくなる。合理的な意味付けがなければ人は納得して歩こうとしない。どこまでも利便を求める大人の社会は、無意識のうちに子どもたちから「歩行」の機会を奪っていく。やがて幼児の頃から機械仕掛けの移動装置を利用する(させられる)時代がくるだろう。その機械は転倒や衝突、あらゆる危険を回避できるよう精妙にプログラムされ、TVやビデオ並みに普及する。それを文明の進歩と呼び、歓迎してよいのだろうか。そこに山がある限り、自分の足で登ろうと決意し、一歩一歩山頂を目指す人間はこれから減る一方なのだろうか。

登山同様、古典の学びは、我々の精神を試し、鍛える。子どもは自分ひとりの意志で山登りを始めることはない。はじめのきっかけは必ず大人が与える。幼い頃に山登りに親しんだ者は、親になるとわが子を山に誘い、その子も山登りに親しんでいく。こうして山道は守られ、未来に継承されていく。山中に人の歩ける道が存在するという事実は驚嘆すべきことである。同様に、二千数百年の時を超えて目の前の古典作品を読むことのできる状況もほとんど奇跡と呼ぶに値する。無数の人間が山道を歩き続けることによって道が守られるように、古典も無数の人々に読まれることによって未来に引き継がれていく。さらに、大人が自らの「学びの子守唄」──めいめいの学びの恩──を思い出し、精一杯自分の声でそれを奏でるという本来の教育の営みについても同じことがいえる。

山の学校の取り組みに独自性があるとすれば、このような人間本来の学びを大事にする点にある。すなわち、テキストとしての古典に正面から取り組むだけでなく、年齢を問わず、学びのジャンルを問わず、人間らしい学びのありようをいつも手探りで確かめながら、教える側も学ぶ側も一緒になって山道を登っていく。

同じ山道でも山頂を目指してタイムを競わされるのでは、それを「山登り」とは呼ばない。受験のため、強いられて学ぶことを本来の学びと呼ばないのと同様に。数値による「評価」の一切は、人生の大事なものの値打ちを正しく示すことはできない。あの山は標高何メートルだから登る価値があり、何メートル以下だと登る値打ちがない、というものだろうか。何時間以内に登頂したら褒められ、遠回りをし、時間をかけて山頂に着くことは無意味なことだと叱られるのか。山の頂に到達するという「結果」だけに価値があるのなら、歩いて山道を登るのは時代遅れである。世間の「常識」が耳打ちする、これからの時代は、ロープウェイ、ドライブウェイを利用すべきである、なぜなら、その方が効率的だからである、云々と。

だが、人間はいつの時代にも自分の足で山に登ることに喜びを見出すものである。実際人間以外で山登りを楽しむ生き物はあるのだろうか。急がず、あわてず、自分で決めた道を自分の足で歩く。それが本来の学びの山道を登るやり方である。そのようにしてこの山道は守られてきたし、未来に伝えられていく。こうして人間の文化が継承されていく。

「点数で競わせない」教育はけっして楽な選択ではない。競争と称しつつ、やっていることは同じ答えを生徒に鵜呑みにさせるやり方のほうがマニュアル通りにやれる。だが、そうやってせっせと詰め込んだ内容にどれだけの普遍性があるのだろう。皮肉ないい方をすれば、現代日本の「古典」とは「入試問題のデータベースとその正解」であるかのようだ。これもまた「ガラパゴス化」の一例といえないか。

人はけっして――「そんなことではよい学校に入れない」などと――恐怖に駆られて学ぶようにはできていない。古典にふれるとき、本来の学びにふれるとき、人は感動・感謝・尊敬の気持ちで学ぶことができる。それはけっして楽な道ではないが、学ぶ道への信頼と学ぶことの充足感が生涯心の支えとなるだろう。

末尾に当たり、私たちの活動の一部について、今回も「クラスだより」として、読者諸氏にご一読いただけることを何よりありがたく思う。なお、山の学校のブログには、克明なクラスだよりが日々蓄積されているので、興味を持たれた方はぜひご覧頂きたい。
(2010.6)