漢文クラス(2011/10/3)

早いもので10月になりました。「すっかり寒くなりましたね」というご挨拶から、今回のクラスは始まりました。

さて、前回までに引き続き、『説苑』復恩篇を読んでいます。晋の文公を中心とした話が続きます。

今回、読んだところのなかには、どうしても上手く読めないところがあり、私も予習の段階で自分なりの解釈を見つけてきたつもりではいたのですが、それを分かりやすくお伝えすることができなかったと感じています。たいへん申し訳なかった
です。

そこで、今回のblogには、その埋め合わせではありませんが、今回の授業では慌ただしくしか説明できなかった「三(と九)」のお話を、すこしだけ書いてみたいと思います。

「三と九」というのは、もちろん数字の3と9のことではあるのですが、中国語のなかで、特に古典のなかに登場する「三」と「九」は、ちょっと変わった意味を持っています。
このことについて、清朝中期の汪中(1744-1794)という学者は「釈三九」という論文まで書いています。

汪中は、「三」や「九」には、「実数」(実際の数を表す文字)ではなくて、「虚数」(だいたいの数、概数)としてはたらく場合があるとして、いくつもの例を古典のなかから引いてきます。
汪中の引く例は、あるいは読者の方にはなじみの薄いものもあるかと思いますので、ひとまず『論語』からの例で代用しますと…;

「吾日三省吾身」、「三年無改於父之道、可謂孝矣」、「令尹子文、三仕為令尹、無喜色。三已之、無慍色」、などの例が挙げられます。

一般に、これらは、「吾れ日に三たび吾が身を省みる」、「三年父の道を改めざれば、孝と謂うべし」、「令尹子文、三たび仕えて令尹と為るも、喜色なし。三たび之を已むるも、慍色なし」というふうに読まれており、それぞれ、「三度」、「三年間」などと解釈されています。

しかし、それとは別に、これらの「三」を概数として解釈する人も、いることにはいました。汪中はそれらを発展させたとも言えるわけですが、その説を使って読んでみると、上記の『論語』の句は、
「わたしは一日に何度か自分のことを反省するんですよ」、
「まぁ、何年か、お父さんのやり方を改めなかったら、孝行息子と呼んでやってもいいよ」、
「令尹(総理大臣のようなもの)の子文さんという人は、何回か令尹になりましたが、特に嬉しそうな様子もなかったそうです。それに、何回か辞めさせられていますけど、悔しそうな感じもなかったみたいです」、
というようになります。

このように、「三」には、「いくらか、いくつか」といった意味で使われる場合があるのです。英語ならば、someとかany、もしくは(a)little/(a)fewと言うべきところを、なんとthreeと言ってしまっているようなものかも知れません。もし日常会話の中でthreeしか使えなかったとしたら、とても不便ですね。

「九」については、思ったほどいい例が『論語』になかったのですが、「三」よりももっと多くの、やはり概数を表します。「いくつも」などというイメージでしょうか。思い切ってa lot ofと訳してもいいような場合もあります。

注意しなくてはならないのは、やはり3や9の意味で「三」と「九」が使われている場合もちゃんとある、ということです。
例えば、やはり『論語』に「季文子三思而後行」(季文子という人は、三回考えてから行動した)とあり、これも「よくよく考えて」という意味に取りたくなるのですが、そのあとに孔子が、「再、斯可矣」(二回で足りるのに)と言っているのを聞くと、ちょっと考えてしまいます。
また、「詩三百」という表現も、「何百篇もある詩」と解釈したくなりますが、実際の『詩経』に収められた篇数が311ですから、「三百」というのはほとんど正確な数字ということになります。
(ただ、思い切って言ってしまうと、この孔子の「詩三百」という数に合わせて、誰かが『詩経』の篇数を300くらいにしてしまった、とも考えられなくもないのですが…。)

ちなみに、日本語ではどうでしょうか。実は、似たような表現がいくつかあります。「三日坊主」(すぐにやめてしまう)、「三日三晩」(何日もずっと)、「三人寄れば文殊の知恵」(何人かいた方がいい)、「早起きは三文の徳」(ぴったり三文ずつということがないはず)、などなど。いずれも、必ずしも「三」ではなくてもよいものばかりではないでしょうか。
「九」については、「九尾の狐」という妖怪がいますが、これも妖怪の尾っぽを一本、二本と数えたわけではなくて、「何本も尾がある狐」とした方がいいように思います。そのほか、「九死に一生を得る」、「九十九里浜」など、とにかく「数が多い」ことが言いたいだけなのです。

以上、あまり上手くもない文章を、最後まで読んでいただきありがとうございました。Thank you.

木村