漢文入門(2013/9/30)

今回も『史記』廉頗藺相如列伝のつづきを読みました。

中国の文学では、対句という技法が頻繁に用いられます。その極致は六朝時代の駢文であり、唐代の詩ですが、それらは対句になりたいという中国語本来の欲求を様式美として磨き上げたものです。

この本能は『史記』のような散文にも表れています。たとえば、廉頗の次の発言…

我為趙将,有攻城野戦之大功,而藺相如徒以口舌為,位在我上。

これは厳密には対句とは呼べませんが、我(=廉頗)と藺相如とを対置している点は対句に似ています。授業では、この文の「労」字の解釈について話題になりました。

この字を見て、どんな熟語を思い浮かべるでしょうか? 「疲労」「苦労」「労働」「勤労(感謝の日)」… まだまだありそうですが、「ほねをおる」ということに関係した熟語が多いようです。

しかし、前句に「大功」の語があることに注目すると、「功労」という熟語もあったことに気づきます。「功」も「労」も「てがら」という意味の同義語です。

そう考えると、この文の「労」は(「ほねをおった」結果であるところの)「てがら」といった意味で、前の「功」と重複するのを避けて使われたものと見ることができ、「攻城野戦の大功」と「(ただの)口舌の労」とで、どちらがより大きな功績だと思っているんだ、という廉頗の憤りが理解しやすくなります。

詩や駢文以外の文章でも「対」ということを意識して読む、というのは、ある先生に教えていただいたことです。それ以後、その先生とはあまりご一緒する機会はないのですが、この教えはとても印象に残っています。

次回からは『韓非子』姦劫弑臣篇に戻ります。

木村