Knowledge is power をめぐって

山下太郎

昨今繰り広げられる学校教育をめぐる議論においては、「知識は力である(knowledge is power)」という意見が優勢を占めているように感じられる。これは、文部科学省の進めた「ゆとりの教育 」に対する批判や失望を反映していると思われる。

このスローガンは知識偏重の教育を是正するべく登場したが、教えるべき知識の分量を抑制したり、教える時間数を制限したりするようになると 、子供たちを含めた教育現場からも、保護者サイドからも不安の声があがるようになった。すなわち、「知識」はやはりパワーであり、「ゆとりの教育」は子供たちのパワーダウンにつながるのだ、と。皮肉なことに、鳴り物入りで登場した「ゆとりの教育」は、本来子供たちの「生きる力」のパワーアップを目指すものであったはずである。では、ボタンの掛け違いはどこから始まったのか。

この問題を論じるなら、まず学校教育でやりとりされる「知識」の意味を問い直す必要がある。「ゆとりの教育」に対する不安の多くは、学習内容や授業時間数の制限が「高校受験」や「大学受験」に対して不利に働くのではないかという懸念と無関係ではない。つまり、大学や高校の入試は、子供たちの「生きる力」でなく「知識」の多寡を問う現実が歴然としてある。したがって、「ゆとりの教育」を導入するなら、大学や高校の入試システムも抜本的に変革する必要があった。だが、それはなされず、今も大学受験といえば、「センター試験」――60万人の受験生が挑戦する――が象徴するように、「正解を記号で選べ」式の問題が幅をきかせている。

私見を述べれば、「知識」も「生きる力」もどちらも大切である。両者は、対立する関係にあるのではなく、ともに助け合うものである。「知識」は「生きる力」の基礎になると思うからである。仮に「生きる力」を「学ぶ力」と言い換えるなら、「知識」が「学ぶ力」を支えることは自明であろう。だが、今の日本では「知識」と「学ぶ力」の区別が曖昧である。「知識」は試験で評価できるが、「学ぶ力」は試験で評価できるものではない。だが、「学力試験」とは「知識」の試験であり、世間ではその「知識の量」を「学力 」と呼んでいる。

「学ぶ力」、すなわち「学力」は、むしろ「知的好奇心(curiosity)」と呼ぶべきものである。「知識」がいくらあっても「学力」が身に付かないケースも多いのである。実際、「知識」をたくさん詰め込んだはずの大学生といえども、みながみな「学ぶ力」を生き生きと発揮させているとはいえない。

このことと関連して、孔子は次のように述べている。「基礎的知識を習得するだけで自分流の考えを育てないなら、その知識が何のためにあるのかが曖昧になる。逆に、自分流の考えをめぐらせても、基礎的知識を学ばない限り、その考えは独断に陥り危険である 」と。つまり、学校教育においては、「知識」習得の議論だけに終始してはいけないということである。生徒は「知識」をもとにしていかに「自分流の考え」を養成していくのか。大人はその過程を見守り、工夫し、子供たちを応援しなければいけない。だが、現状はどうだろうか。

かつて文部科学省が唱えた「個性の教育」にせよ、今唱えている「ゆとりの教育」にせよ、その理念を現実のものとするには、子供たちにとっては弛まぬ基礎知識の習得が不可欠である。だが一方では、その基礎知識の習得は何のために位置づけられるのか?という子供たちの素朴な問いに対して、教師や親が真摯な答え――答える人の数だけあろう――を用意する必要があるだろう。「知識は受験のために必要」という答えが判で押したように返ってくるのが現状では、子供たちがやがて学ぶことに失望しても、それを一方的に非難することは出来ない。

私ならば、孔子が示唆したように、「知識」は子供たちが――本当は大人たちも――自分流の考えを養う基礎になる、と答えたい。だが、ギリシアの伝統に則して述べれば、自分流の考えを養うためには、いったん習得した「知識」を疑うことが大切である。獲得した「知識」への疑問をもつことによって、新しい発見や新しい知識への欲求も生まれるのである 。

このように、「知識」と「学力」は元来別の言葉であり、この区別はきわめて重要である。だが、もっと大切なことは、こうして培われる「学力」が何のためにあるのか、という問いである。無論、いろいろな答えが用意されてしかるべきである。「立身出世のため(金儲け、就職のためも含む)」、「親のため」、「国家のため」などなど。しかし、プラトンであれば、「善く生きるために」と答えるだろう。

では、「善く生きる」とはどういうことか?こう考え出すと、問いはあふれるように湧いてくる。「立身出世は善く生きることにつながるだろうか?」などなど。つまり、教育に関する議論は、結局のところ哲学の問題にたどり着く。それもそのはず、日本が採用している教育システムのルーツはプラトンの開いたアカデミーに遡るからである。

ラテン語に Scientia scientiarum (知識の中の知識)という表現があり 、これは「哲学」を意味する。「哲学(philosophy)」とは「知を愛すること」を意味する以上、「学ぶ力」すなわち「知的好奇心」と無関係の言葉ではない。問題は、何を知るかということであるが、プラトンにおいては「善のイデア」ということになる。すなわち、「善とは何か」についての究極の答え(真の幸福は何か)を考究することが、本当の意味で「学ぶ」ことに他ならなかった。

哲学は「生きる力」を支える源であり、「生きる力」が強まれば「知識」に対する欲求も強くなる。社会に出て働いて初めて「知への欲求」がかきたてられることも不思議ではない。この点で、社会に出てから「学ぶ」という選択肢は重要な意味を持っている。また、プラトンは「無知の知」(自分は知らないということを知っている、すなわち自覚している)という言葉を残したが、その意味は社会に出てこそ鮮明に理解できるのではないだろうか。

すでにふれたように、今の学校教育では、知識が学力と取り違えられ、どれだけ努力しても100点を超える点数はとれない仕組みになっている。逆に言えば、100点を絶対視することで、学校で学ぶことには必ず正解があると錯覚するようになる。例えば、テストで100点を取ったら、「知の知」が身に付くということになるのだろうか。あるいは、試験で悪い点を取り自己嫌悪に陥ることが「無知の知」ということなのだろうか。この習慣や発想が身に付くことは何より怖い。

人生は真っ白の紙に自分の絵を描くことを意味する。試験至上主義の教育は、塗り絵に指定された色を塗ることを求めている。線からはみ出さずに上手に塗れるかどうかが指導のポイントである。だが、それは自分の絵を描くことではない。他人の人生でなく、自分の人生を生きること。デルポイの神託の告げる「汝自らを知れ」という言葉は、今も新鮮な輝きを放っている。
(2008.6)