文学部で学んだこと――100年先の世界のために――

山下太郎

私は英文科四回生の秋、思い切って西洋古典文学に専攻を変える決意をした。岡道男先生(当時の主任教授)のおられた研究室は、今はなき煉瓦造りの旧館二階にあった。専攻変更のお願いをするため、おそるおそる先生の部屋の扉をノックすると、万巻の書物がそびえ立つように見えた。先生は私の志願理由を頷きながらお聞きになり、ご自身も独文出身であると打ち明けられた。私がラテン語もギリシア語も4時間コースを履修していないことを察知されると、「語学は慣れです」と口にされ、先生の実践されたラテン語、ギリシア語習得法――先生はこれらの言語を学部の一、二回生の頃に習得された――を次のように語って下さった。まず、春休みの全期間、その言語の習得のことだけを考えて集中的に独学する。その際、文字通り寝食を忘れて取り組むこと。次に、新学期から開講される西洋古典の演習に出席し、辞書を引いて原文を読む訓練を続けること。

私が目をぱちくりさせてお話を伺っていると、先生は書庫から両手でないともてないような大型の辞書や注釈書を机の上に運んでこられ、ギリシア語、ラテン語それぞれの単語の調べ方、注釈書の使い方を教えて下さった。時間にしてゆうに一時間を超えていただろう。そのころ先生は後期の授業でキケローの『国家について』を読んでおられたが、該当箇所のコピーを渡され、次回の授業から参加するようにと言葉を添えられた。勇んで参加した授業のレベルは私の想像を絶するものであった。参加者は錚々たる院生ばかりが五,六人、学年順にオックスフォードのテキストを飛ぶように訳していかれる。ちらっと横目で覗いても、テキストに何も書き込みは見あたらない。私はといえば、原文のコピーを拡大してノートに貼り付け、余白に辞書で調べた結果をありったけ書き込むものの、辞書を引くだけで精一杯のありさまであった。先生はときおり「ここはこう訳してもよいですね」と簡単にコメントされるのみで、あっという間に数ページの訳のチェックが終了する。驚いたのはその先で、先生はもう一度最初から原文をご自身の言葉で訳していかれたのである。重要な箇所については「ここは(学問上)問題の箇所で、後で説明します」とコメントされ、そのままどんどん先を訳していかれた。まるで日本語の訳を朗読されているかのように。こうして二度にわたる原文の訳読が終了すると、今度は細かな字でびっしりと書き込まれた研究ノートのコピーが配布された。そこには、解釈上の争点が文献案内とともに整理されていた。先生はこのノートに即して従来の学説を整理され、あわせてご自身の見解を開陳していかれるのだった。

その後年月が流れ、大学院の修士課程、博士課程と進学する中、私の理想は岡先生のように流麗に原文を訳し、先生の流儀で研究ノートを作り、論文を発表することであった。すなわち、テキストの精読と研究史の精査からにじみ出てくる自分のオリジナルな解釈の萌芽を大切に育て、論文という花を咲かせること。しゃにむに勉強し、語学の問題以上に研究の壁に何度もぶつかったとき、私は先生の論文をどれだけ繰り返し読み返したことだろう。先生が研究対象とされた原文を自分の手で徹底的に読み砕き、その後先生の論文を何度も読み返すこと。この繰り返しによって、私は論文の書き方に関し、先生の「攻め方、守り方」が目をつぶっても浮かぶようになった(気がした)。それは、有名選手のフォームをまねて素振りを続ける野球少年と何ら変わらぬ気持ちであった。苦労の末修士論文を提出し、先生から「100年先の世界のために研究するように」と言われたとき、私は「普遍」という言葉を何度も心の中でつぶやきながら、熱いものがこみあげた。

その後さらに歳月は流れ、私は文学部でラテン語を9年間教える栄誉に浴したが、この間父の病状の悪化を受け、家業であった幼稚園を継ぐために本務校(京都工芸繊維大学)の職を一昨年辞した。愛着のあった文学部の授業(ラテン語4時間コース)のみ昨年度末まで続けさせていただいたが、この最後の年の授業では、前期に文法書を終え、後期にキケローの「スキーピオーの夢」を読むことにした。私にとって思い出深い『国家について』を締めくくる有名なエピローグである。熱心な学生たちとテキストを精読する時間は、文字通り至福のひとときであった。だが最終回の授業でhanc tu exerce optimis in rebus! (これを――汝の魂の力を――最善の仕事において発揮せよ!)という表現に出会ったとき、感無量の思いがした。ここで言われる「最善の仕事」とは、文脈に即して読むと res publica (国家)を守り発展させることであるが、このラテン語は広い意味で「公の仕事・事柄・問題」など多様な意味を内包する。引用したキケローのラテン語を吟味するうち「魂を込めて世のため人のために尽くせ」と読める気がしたのである。学問の世界から飛び出し、新しい仕事の継承と発展に心を砕いていた私にとって、この言葉は大きな励ましのように感じられた。一方で私は、文学部で学んだ philosophia (知を愛する心)を子どもたちと分かち合いたいという願いを込めて、幼稚園長就任と同時に、小学生以上の子どもたちを対象とした学びの場(山の学校)を創設していた。そこでは国語の教科書代わりにプラトーンやアリストテレースの作品を読み、講師と議論を交わす。キケローやセネカのラテン語を読み解くクラスもある。大人も子どもも無心になって学ぶ場がここにはある。

今の活動の原点には、岡先生によってres publica (公の仕事)としての研究の道を示していただいたことへの感謝がある。文学の研究とは、無数の人々に読まれてきた res publica (公共財産)としてのテキストを守り、次世代に伝える仕事のことであった。他の学部の研究が、現実に役立つものを成果として期待されることが多いのに対し、文学部の研究はいつも「普遍」や「理想」をテーマとし自由に議論することが許される点で「学問」の王道を行くものである。だが、この道を生かすも殺すも結局は「人」次第なのだと思う。論文の数を競ったり競わされたりする態度は、「私的な問題」(res privata)に執着することを意味するのである。だが、学問の意義はそのようなところにあるのではない。同様のことが教育に関しても言えるだろう。人を育てる道とは、畢竟「私」を超えた「公」の存在としての「人」を育てることである。再びキケローの言葉に耳を傾けるなら、res publica と呼びうるものは時空を超え、永遠に存在し続ける。また、人間にはそれぞれの立場でこれを守り育てる道が開かれている。今私は論文を書く者ではないが、「100年先の世界のために」という志は、新しい仕事の中で変わらぬ意味を持ち続けているのである。

(京都大学文学部100周年記念誌所収、2006.6)