福西 亮馬

高校数学には数Ⅰ、数Ⅱと範囲がありますが、数Ⅰとは一体何でしょうか? 数Ⅱとは? 数Ⅲとは? それはどんな内容を含めば、そう呼ばれるのでしょうか? 明確な説明ができる高校生はおそらくいないでしょう。ただし、聞いてみると、「二次方程式は数Ⅰで、でも解と係数の関係は数Ⅱで習って、そして微分は数Ⅲの範囲で、確率は…」と並べることはできます。けれどもそのせいで、数学がとても細分化された学問だと思ってはいないでしょうか? もしそうだとしたら、間違いです。

こうした誤解は、自分で手を動かさない人によく見られます。この問題は微分でなければ解けない、とか、方程式の問題だから、微分とは無関係だというような理解の仕方で留まっているのです。しかし自分で問題を作り出したことのある人は、別個と思っていた二つの物が「つながっているのだ」と認識することがよくあるでしょう。そうした喜びは、自分で何かを自分で発見しようという人でなければ得られません。

習ったことについては、なおさら、自分で導けなければならないでしょう。そしてn=2 の場合を習ったのなら、n=3 でも 4 でも拡張できるはずです。またn を無限にまで動かしてみれば、どうなるでしょうか。それを人に教えられるようなぐらい、自分で何か一つの定理を探してみれば、数学はもっと自由だと感じられるでしょう。今手を動かしてみることを、数学が拒む理由はありません。とにかく自分が「ここ」と思ったところを、深く掘り抜いてみることが大事です。

さて「幾何学に王道なし」という言葉がありますが、高校の数学に話を限定すれば、実は王道が備わっています。それは、学校で習う数学、教科書です。けれども大学生になるまでにその価値に気付くことは困難です。その困難を自分の手で切り開いてもうらことを、このクラスでは目的の一つにしています。あるときは計算に終始するでしょう、あるときは概念を聞く話になるでしょう、けれども一番大事にしていることは、「帰納すること」です。

学校の授業時間では、習いたての定理をいくつものパターンの問題に適用する、つまり演繹が主になります。一時間でたくさんの問題を解ければ、それだけ基礎が定着していると分かります。ふつう塾で言う学校の補いとは、この練習の充全をさします。しかし学校の補いといえば、もう一つあります。それは演繹とは反対に、いくつものパターンから出発して、自分なりに定理を発見すること、つまり帰納することです。帰納とは、つまり「自分で考えること」です。一つの定理を導くために、泥臭くても手を動かし、考え続けることです。

演繹では考える瞬発力、帰納ではその持久力が伸びます。両方あって両方とも意味があります。ただ学校の勉強では、後者がカリキュラムの都合でどうしても不足し、そこで自分の時間──妨げられざる、切り刻まれざる──で補う必要が生じます。けれどもめいめいそのことを自覚して、勉強に取り組んでいる高校生の集まりがどれだけあるでしょうか。「君たちもガウスのように始めたまえ。すぐに自分がガウスではないことがわかるだろうが、それでもよい。とにかくガウスのように始めたまえ」と、数学者ヴェイユは言いました。「自分のアイデアを持ってはじめよ」という意味です。アイデアには帰納が必要です。しばしば具体的、個別的な物を計算から出発し、帰納するうちに生じます。

オイラーの著書に通暁し尊敬しながらも、それに頼らずに自分の知力で、正十七角形の作図法を発見した、あの若き日のガウスの経験を、高校生たちに私もさせてやりたいと思います。私がこのクラスで主張することは、結局は一つです。「帰納と演繹を交互にしなさい。とりわけ帰納には倍の時間を割きなさい」と。学校で知識を得ることをないがしろにせず、かといってそれだけに終始しない、他の考えを受け入れ、自ら考えることもできる、そうした知性の発掘が、このクラスの課題です。
(2005.2)