Homo sum.  私は人間である。

『山びこ通信』2015年度秋学期号より、巻頭文をご紹介致します。

「Homo sum.  私は人間である。」

山の学校代表 山下太郎

 10 年、20年先の未来を考えるとき、どのような教育が必要とされるのだろうか。インターネットが社会の仕組みを変えたように、今後多方面でロボットの活躍が期待される中、人間にしかできない仕事は何かがますます問われるに違いない。

 すでに複数の研究機関が予測しているように、これから20年先まで存続する職業は、現在の5割程度といわれる。かりにそうであるなら、従来のようにロボットが一瞬で採点できる問題に最適化された「人材」でなく、ロボットが採点しえない価値を生み出せる「人間」を育てることが教育界では強く求められるだろう。

 今後重要になるのは、一言でいえば「人間による人間のための教育」ということになるが、それは具体的にどのようなものだろうか。このような問いは何か目新しい答えを期待させるが、私はすでにこの世に存在してきた教育がベースになると考える。ただし、従来の知識の多寡を競わせる教育の影に隠れていた教育である。

 我田引水のそしりを恐れずにいえば、幼児教育こそロボットが代行できない教育の象徴だと思う。幼稚園に通知簿はないが、人間としての評価(言葉による励まし等)がそこにはある。園児は人として、つまり偏差値や100点までの数字に置き換えられない存在として認められ、自由に遊び、夢中になって汗をかくことができる。

 幼児にとっての遊びは能動的な学びの機会である。友だちとの遊びを通して、子どもたちは思考力や想像力、問題解決力を養っていく。社会性も、優しさも、いたわりも、友情も。「三つ子の魂百まで」といわれるように、幼児教育は人間の魂の根幹にかかわる点で、今後ますますその重要性を高めるにちがいない。

 幼児教育だけではない。小学校以上の教育においても、人が人を教え、人と人が切磋琢磨して学びあう場所であるかぎり、そこにはひとりひとりの努力を見守る温かいまなざしがあるし、これからもあるだろう。ただし、小学校以上では何かモノサシを当てて子どもたちを評価しないといけない現実がある。このモノサシを取り去っても有意義な教育ができるかどうか。ロボットが一瞬で満点を取るようなモノサシを今後どれだけ生徒たちに当てはめ続けるのか。

 本来大学は、幼児のような自由な心をもった人間の集う場所のはずである。歴代のノーベル賞受賞者が口をそろえていうせりふは、「面白いからやる」で一致している。創造と発見はロボットのもっとも苦手な領域であるが、今の高校に至るまでのモノサシ教育は、大学で行う学問研究を生徒たちから遠ざけることはあっても、近づけることはないだろう。知的創造は、「正解」があるという前提で行われる椅子取りゲームではなく、むしろ幼児の没頭する遊びに近い。少し観察すればわかるとおり、子どもたちの遊びは試行錯誤と創造的模倣の連続である。

 ラテン語で「子どもたち」を意味するliberi本来の意味は「自由な人」であり、「幼い人」でも「小さい人」でもない。また、study(勉強、学問)はラテン語のstudium(熱意、情熱)に由来し、student(生徒、学生)は同じくラテン語のstudens(<真理を>熱心に求める人)に遡る。さらにラテン語で「学校」を表すludusの一般的意味が「遊び」であることは注目に値する。彼我の言葉のニュアンスの相違は、日本人の学問や学校に対する独自の価値観を浮き彫りにするが、今問われるべきなのはオリジナルの言葉の意味である。

 表題の「私は人間である」は、古代ローマの喜劇作家テレンティウスの言葉であり、「人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う」と続く。ヨーロッパ精神の根幹をなすフーマニタース(人間であること)の理念を象徴する言葉として欧米では広く知られるものである。人間とは何か。この問いを極限まで問い続けた精神の記録がヨーロッパの文学、とりわけ古典文学に刻まれている。近未来において予想されるロボットの活躍は、「人間とは何か」の問いをいっそう際立たせるだろう。それに伴い、いまだ「洋才」偏重の日本社会が「洋魂」を真摯に問い求め、「和魂」を照らす確かな鑑を得るかもしれない。また、それによって普遍的「人間の魂」を見つめる時代を迎えるかもしれない。

 今後人間による人間のための教育、すなわち幼児教育を規範とする新しい人間教育が市民権を得、世の中の教育全般がより豊かな成果を生み出す方向に動き出すことを願わずにいられない。平成27年の今、このような願望はあまりに楽観的すぎると一笑に付されることは間違いないが、私のささやかな希望は10年、20年先の世の中においてなお、山の学校の教育が新しい私塾のあり方を示す一つのexemplum(範例)として世の片隅を照らし続けることである。(山下太郎)