哲学を学ぶ上で、デカルト、スピノザやルクレティウス等を原書で読んだりするために「ラテン語初級文法」のクラスを受講しました。

今では、田中利光先生の『ラテン語初歩』も残りわずか4課を残すのみとなり、ラテン語の文法システムや話者の思考法の骨格が頭の中に入ってきました。はじめはpuellaやdominusの活用に音を上げていたものですが、今では一つの課の中にたくさんの暗記事項が出てこようと、それまでの複雑な活用を憶えきった経験から、案外憶えられるものだという妙な安心感が生まれ、臆することなく前へ前へと進んでゆける実感があります。そして何より、ラテン語を学んでみて得た最大の恩恵は、ラテン語と比べるならフランス語や英語が極めて習得が容易な言語であるということがわかり、他の言語もこの調子で身につけてゆこうという気概が生まれたことでした。

もともとフランス語については、日仏学館の授業や母語話者のコミュニケーションを通して、云わば、自分自身の直感とそこで発せられた言葉とをすり合わせながらその言語の持つ分節体系=世界観を自ら推測し構築してゆくという学びをして身につけましたが、授業では、はじめから完結された(ととりあえずはされる)ラテン語の分節体系=世界観を、端っこからゆっくりと糸を辿りながら踏破してゆき、ラテン語の世界がゆっくりと頭の上へと降りてくるという印象を持ちました。ただこの記述では、単に暗記によってラテン語の文法を身につけたと思われるかもしれないですが、この印象とは別の、考えてみれば不思議なことがありました。それは既述のように、課を重ねる度に信じられないくらいの暗記量が課されるのにも関わらず、なぜか後半にいくに従って、ラクに活用・変化の暗記が進むということでした。単純に前に出てきた活用・変化を応用して新たな活用・変化が作られるゆえという側面もあるとは思うのですが、それだけではどうも説明のつかない現象のように思われました。

それは、少しずつ活用・変化やそれを使った例文に親しむに連れて、それを話していた人がその言葉を使うことで得ていた呼吸の間合いや身体感覚と自らが同調し、そのことゆえに、次の活用・変化が何であるのかが自然に出てくるという説明が私には一番しっくりくるようです。そしてそのしっくりくることを思うと、この言葉を確かに喋る人がいたんだ! 人々はこの言語を話していた! という当たり前の事実に感動を伴って私は打たれます。すると例えば、能動相欠如動詞が不定詞や分詞、動形容詞へと変化する際に能動相の欠如という観点から矛盾が生ずる形になってしまうことや、名詞の第四活用中性の単数の変化が属格以外は同じになってしまうことなどに、彼らの脳の演算の限界や、まあこうしておけばいいだろうと妥協する姿などが見えた気がして嬉しくなるのです。結局、フランス語とは逆の道行きとなったとはいえ、文法書というところから発して、それを話していた人の口調や息づいている部分に触れることができたのです。これは今回のラテン語クラスで得たもっとも大きな感動の一つです。

残り一回は、来週のお昼の時間です。遂に最後の51課目まで踏破できるようです。担当の山下先生、それからこの学校を創ってくれたもう一人の山下先生に感謝をしつつ、これからも少しずつラテン語の力を向上させてゆき、ラテン語を学ぶ者の灯りを未来へと続けてゆきたいです。

(M.Y.さん)