時代の扉を開く鍵――草の根の教養教育とラテン語と

『山びこ通信』2014年度冬学期号より、巻頭文をご紹介いたします。

時代の扉を開く鍵――草の根の教養教育とラテン語と

山の学校代表 山下 太郎

 山の学校は4月で開校12周年を迎えます。当初4コマだったクラスの数は現在40コマを越え、会員数も100名ほどになりました。小学生から高校生の部に関しては、その当時の私が幸せを感じたような時間がそれぞれのクラスやイベントの中で流れていますし、一般クラスの活気に満ちた取り組みは、一昔前の大学教養部の賑わいを思わせます。今後とも講師一同力を合わせ、学校教育の補完的役割、また、草の根の教養教育を続けていきたいと存じます。

教養教育というと思い出すことがあります。以前勤めていた大学で、年に一度フランス人の先生(ジュリー・ブロック先生)と一緒に合同の授業をすることがありました。対象はデザインや建築を学ぶ新入生200人ほどです。授業の中でキケローの名を知っているかと尋ねたことがあるのですが、誰も手を挙げませんでした。これを見てブロック先生は驚かれました。「フランスだと小学生でも知っています」とのこと。これには学生たちがびっくり。緊張して手が上がらなかったのではなく、続いて「ファーブルの名は?」と聞くとほぼ全員が手を挙げたのでした。これにまたブロック先生がびっくり。

たしかにシェイクスピアやゲーテなら話は違ったかもしれません。しかし、これらの作家が敬愛してやまないギリシャ、ローマの古典(西洋古典)はどうでしょうか。悲しいかな、日本の学校教育ではほとんど何も紹介されないままです。それで何が困るのか?という人が大半だと思われますが、私は、それがために日本の教養教育の取り組み――本来西洋古典に源流を持つもの――は頓挫した(させられた)のだと考えます。

キケローといえば、Ipse dixit.(子曰わく)という表現が真っ先に浮かびます。彼によると、ピタゴラスの弟子たちは論拠を問われると、「だって、先生がそういった(ipse dixit)のだから(正しいに決まっている)」と答えるしかできませんでした。もちろんそれではだめなので、「議論を行うさいには、権威よりも理論の説得力こそ求められるべきである」というのがキケローの主張でした。何気ない言葉のようですが、ipse dixit.に込められたキケローの批判精神がその後のヨーロッパ精神の形成に果たした役割の大きさは、いくら強調してもしすぎることはありません。(和魂洋才といいますが、キケローは間違いなく洋魂を体現する巨人の一人です)。

翻って現代の日本社会はどうでしょうか。「~がいったのだから正しいに決まっている」と無意識のうちに思い込むことがないか、どうか。個人差があることは当然ですが、日本人は全体としてみればやはり権威を盲信しやすい国民だといわざるをえません。これは民主主義にとって危険なことであり、必要なのは良質な教育だということになるのですが、その教育の現場においてもっとも幅をきかせるのが「正解」という権威であるとすれば、私たちはいったいどこに救いを求めればよいか、となります。

儒学の影響は小さくないのでしょう。『論語』では孔子の言葉を引用する際、「子曰わく」で始めます。日本の社会において、「子曰わく」という言葉が発せられたら――「教科書にはこう書いてある」、等――、受け取る側は、けっして疑義を差し挟んではいけないかのようです。「子」とは何か。権威と名の付くものすべてがそうです。社会には「子曰わく」と唱えることで守るべき大切なものはたしかにあるはずですが、これからの時代はそこで思考を止めてはいけないのでしょう。沈黙は金なり、されど批判もまた金なり。要はバランスです。

キケローの思想がフーマニタースの学(人間の学=教養教育)として、2000年以上にわたりヨーロッパの知的伝統の中に息づいてきた事実は驚嘆に値します。と同時に、彼我の相違を思わずにいられません。すなわち、権威への盲従を当然視する風潮と、権威の言説を徹底的に批判する姿勢は180度異なるでしょう。だからこそ、私たちはあえて異なる価値観(洋魂)を正しく知る必要があるのです。相手を礼賛し己を卑下するという明治風のやり方でなく、己を照らす確かな鏡を持つために、です。やるなら根っこから。やるならラテン語から。これを明治以降日本は怠ったのではないでしょうか。ラテン語はヨーロッパ社会における漢文です。

前置きが長くなりましたが、私が山の学校設立当初からラテン語を看板に掲げた理由は、まさに今述べた個人的信念によるものです。私は日頃は幼稚園長として、社会の宝というべき子どもたちと接する機会をもちます。その将来を思うとき、学校教育、大学教育に無関心ではいられません。今まで、「山の学校のラテン語って何なのだ?園長の趣味か何かか?」と受け取られてきたかもしれませんが、上で述べたように、(日本における)ラテン語とは子どもたちの未来を明々と照らす「教養教育」の鍵となるものであり、「洋魂」を正しく理解するための手段というべきものなのです。その学習環境を整えることは、ひいてはわが国の教育と学問の自由を守る道に寄与すると信じますし、同時にそれが世界の未来を照らすものであることを願います。西洋古典学とは畢竟人間の学(フーマニタース)であり、それは常に「普遍」を目指すものだと理解できるからです。

本来は、大学教育の一環としてラテン語を学ぶ環境が用意され、講読クラスも含めての充実が期待されるところですが、日本にはラテン語を学べる大学が数えるほどしかありません。とすれば、後は山の学校のような私塾でやるしかないわけです。あるいは個人で独学する人が一人でも増えることに希望をつなぐのみ。こうしてラテン語を学ぶ人が一人また二人と増えるほど、あちらに一つ、こちらに一つと闇夜に蛍の灯りが広がるイメージを私は抱きます。

山の学校は開校12周年を迎えます。もう12年、まだ12年。私に関していえば、これからも幼児教育に軸足を置きながら、草の根の教養教育、とりわけラテン語教育の普及に力を入れていくつもりです。