「山びこ通信」の最新号を発行致しました(2013/6/17)。
巻頭文をご紹介致します。
「素読と音読」
日本の教育をふりかえるとき、戦前までは子どもに素読(そどく)をさせる伝統がありましたが、今は素読という言葉自体知らない人が大半のようです。素読は音読と並び、今でも優れた学びの方法です。歯磨きと同じで、幼い頃から習慣にすれば効果抜群だと思いますので、これらについて知るところを少し述べたいと思います。
素読は音読と異なります。音読は声に出して文を読むことで、目の前には文字が必要です。一方、素読で文字は使いません。字を目で追うのではなく、先生の声を耳で聞き、それをオウム返しします。音読は一人でできますが、素読は先生と自分、できれば一緒に声を合わせる仲間が必要です。
私の園では創設以来60年以上にわたり、年長児を対象として俳句の素読の時間を設けています。文字はあえて教えず、小学校に上がってからの「楽しみ」にとっておきます。芭蕉や一茶の俳句は一流の古典ですが、子どもたちは歌を覚えるようにそれに親しみ、元気に朗唱を繰り返します。五・七・五のリズムに慣れると、自分で身の回りの題材を使って「俳句」を作るようになります(それが狙いではありませんが)。素読教育は「型」の徹底ですが、子どもたちはそれを通じて創造のエネルギーを蓄えます。
素読の基礎は親による本の読み聞かせだと思います。本の種類は少なくてよいです。同じ本を毎日読んでも子どもは飽きません。保護者の中には、自分は本を読むのが下手なので子どもに悪影響を与えないか心配だ、という人がいますが、子どもにとって必要な音は、親の肉声です。CDに吹き込んだプロの朗読をいくら聞かせても、子どもはすぐに注意散漫になるでしょう。小学校に上がっても、読み聞かせはぜひ続けて下さい。
子どもが小学生になったら、学校の教科書を目の前で繰り返し音読させます。毎日繰り返せば自然に暗唱もできるでしょう(それが目的ではありません)。忙しいご家庭は、週に一度でもよいです。親の前での本読みが習慣になれば、頻度は問うところではありません。どうかお子さんの朗読を静かに聞いてあげて下さい。「静かに」というところがポイントで、あれこれ言い過ぎると音読の習慣はそれっきりになります。親にとって、小学校時代の言葉の教育は音読と読み聞かせで十分です。何もいわなくても、子どもは早晩自分で本が読めるようになります。本好きになれば、黙読、多読は自ずと実践できるでしょう。
話を素読に戻すと、私の家では小学三年から中学三年までは祖父が、高校時代は父が『論語』を家族に教えました。全員正座し、挨拶をしたら黙想します。これは幼稚園の俳句のスタイルと同じです。次に目を開け、耳で聞いた通りに唱和します。これも幼稚園の俳句と同じやり方です。祖父は『論語』を「教えた」というより、素読の機会を設けた、というのが正確なところで、言葉の説明は最小限に留めてくれました(だから長続きしました)。これは子どもの頭と心に「余白」を残すやり方です。子どもにとって言葉の意味はどのみち曖昧です。「かみ」を「上」でなく「神」と思うなど、耳では正確に音をとらえていても、意味はまったくとんちんかんに受け止めるものです。
教育の方法として見れば、「かみ」を「上」だと正しながら、あれこれ教えるやり方もあると思いますが、子どもは「正しい解釈」にはすぐに飽きるものです。あるいは「正解」をうのみにする態度を身につけるだけでしょう。祖父は、小難しい解釈はほどほどにして――「いつかわかるときが来る」というのが口癖でした――、代わりに何十回も、何百回も同じ言葉を声に出し、繰り返すよう求めました。
皆さんの中には、このようなやり方にどんな意味があるのだろう?と、いぶかしく思う方がいらっしゃるかもしれません。これは私の意見ですが、素読を経験すれば、文字と意味のありがたみが強く印象づけられます。私は中学に入り、初めて『論語』の書き下し文を教科書で見たとき、とてつもない驚きと感動を経験しました。「おお、あの音はこの文字であったか!」と、旧知の友と再会を遂げた気分でした。「文字」さえ押さえれば、自分で解釈を試み、意味を調べることができる!ここに、「音」だけの学びでは考えられない、「自由」な学びの可能性を直感しました。今にして思えば、「自分で学ぶ」姿勢を身につける上で、素読は役に立ったと思います。
実際、文字を使った本格的な学びは、中学以上の年代にふさわしいと思います。私は中学から高校まで、『論語』の素読経験を英語学習に応用しました。テキスト全文を暗唱し、「暗写」をもって仕上げとする。これが自分に課したルールでした。暗写とは何も見ずに元の言葉を一字一句間違わずに紙に書き出すことです。これができれば、学校の試験は教科書持ち込みと変わらぬ条件になります。余談ですが、その後大学で古典語を学んだ際、試験といえばこれ(=暗写)でした。試験当日は白い紙が配られ、「覚えただけ書きなさい」と言われたのを思い出します。
いきなり暗唱や暗写はきつくても、繰り返し音読するならだれにでもできます。教科書を開き音読を繰り返すとき、誰もが自分の素読の教師になるのです。自分の耳がとらえる音声は、英語に親しみ英語の力を伸ばす上でかけがえのない「音色」だと信じます。この「音」に自信がもてると、英語学習のすべての取り組みがかみ合い始めます。逆に自信がもてないままだと、あらゆる努力が空回りします。
「音読は大切」、そう伝えた上で、生徒たちに英文を10回読むよう指導すると、最初は誰もが運動場を10周走らされる姿をイメージするようです。しかし、事実は逆で、1回目が一番きつく、10回目はずっと楽、100回目だと暗記しているので、負荷としては軽すぎます。実際ストップウォッチでタイムを計ると、読むたびにタイムが短縮するのを実感できるでしょう。こうして日頃から教科書を音読し、いずれ暗唱(暗写)ができるとなると、なにより学校生活に時間的、精神的余裕が生まれます。
素読と音読を中心とした学習の効能は多岐にわたりますが、「集中力」、「記憶力」、「持続力」を養成する基礎として、これにまさるものはないと信じます。上で述べたことを参考にして、各ご家庭で独自の「言葉」の教育を工夫し、実践して頂けたら幸いです。(文責 山下太郎)