山下一郎

テレビ等による映像文化の影響のせいでしょうか、現代の子どもたちは、一方的に、与えられたイメージに支配される傾向が強いようです。

労せずして、すべての事象を映像で捉えることが出来ます。しかも場面は止まることなく、瞬間的につぎつぎと目の前を通過していきます。

昔ながらの“聞くラジオ、聞くお話、読む絵本”等によって得られる想像力や思考力、感性や情操等の不足は如何ともしがたく、それが言語能力の発達の遅れ、ひいては将来につながる人格形成の欠如にも関わってくるように思われます。

ことばの教室の低学年では、“俳句の暗唱”と“話の読み聞かせ”等を通して、“与えられたイメージ”よりも、“想像し、創造するイメージ”の育成を心がけております。

遠山に 日のあたりたる 枯野かな 虚子

この句を初めて暗唱するとき、子どもたちは、句の情景を思い思いにイメージします。「遠山」を、柔らかい丘の連なりと想像する子どももいれば、かつて絵本で見た、峨々たる山々に思いを馳せる子どももいます。

ひとりひとりのイメージにより、個々のオリジナルな風景画が描かれます。“話を聞く”場合も、その中身を映像化しなければなりません。耳から得たことばの情報だけで、話のイメージを創り出します。話の流れの起承転結に沿って、さいごには、話の全体把握を必要とします。

このことが、「おしべが何本で、めしべが何本」といった知識の詰め込みでは得られない、「智恵」の習得につながるのです。

子どもは話を通して、だれかと出会います。そのだれかを通して自分の人生をイメージし、目標とするイメージの達成に向かって自ら求めて勉強に励みます。これが、本当の勉強の姿だと思います。

少年期に愛読したホメロスの叙事詩から未来をイメージし、トロイアの遺跡を発掘した考古学者シュリーマンのことは、よく知られています。

最近は、大学は出たけれど職につこうとしない、“夢を持たない若者”が増えていると聞きます。

ことばの教室では、“俳句の暗唱”で感性や情操を育み、“話の読み聞かせ”を通して、自らの人生をイメージし、未来を創造する、智恵と夢いっぱいの子どもに育ってほしいと願っております。
(2005.2)