自分の人生のために学ぶこと――Non scholae sed vitae discimus.

以下は、山びこ通信の最新号(2012年度冬学期号)の巻末文です。

「自分の人生のために学ぶこと――Non scholae sed vitae discimus.」

『論語』の冒頭では、学びの楽しさが独特な仕方で語られる。まずは復習することの喜びが、続いて同じ志を持った仲間が集い、切磋琢磨することの楽しさが示される。そして、このような自分たちの努力を他人が知らなくてもまったく意に介しないこと、それは、まことに君子(立派な人間)にふさわしい態度ではないか、と締めくくる。

学ぶこと自体が文句なく楽しい。世間の評価は二の次、三の次という言葉は歯切れ良く、力強い。

その中に出てくる「(とも)遠方より来る有り」という言葉。じつに山の学校にふさわしい表現だ。片道三時間かけて通う人もいる。山の上の校舎まで、歩いて上るほかない山道が続く。近隣の人でも心理的な距離は格段に遠い。そこを子どもも大人も登ってくる。試験もない、資格が取れるわけでもない。では何のために?

セネカは言う、われわれは人生のためでなく学校のために学んでいる、と。世間の評価を求めて学ぶのは本当の学びの道ではない、大事なことは「世間でなく、自分の人生のために学ぶことだ」(Non scholae sed vitae discimus.)。そう彼は説いてやまない。まったく二千年前の言葉とは思えない。

翻って山の学校のモットーは「ディスケ・リベンス」。「楽しく学べ」である。一方、「(らく)して学べ」という立場もある。汗をかいて山道を登り切った者にしかわからない喜び。ドライブウェイで山頂についた者にはわかるまい。山頂でスタンプを押してもらい、急いで次のバスに乗り込む者たち。いつまでも景色を眺め楽しむことは御法度だ(パン食い競争で、パンは味わうな、食いちぎって走れ、と言われるのと同じである)。

学問にせよ芸術にせよ、およそ人間の技術が関与するところ、進んで苦労する喜びがある。失敗をものともせず苦労を乗り越えて得られる喜び。幼児もしかり。何度も失敗した末に自転車に乗れる喜びを進んで味わおうとする。登山者しかり、学びの山道を登る者しかり。通底する真理は一つである。

「楽しく学べ」(ディスケ・リベンス)は、「進んで学べ」と訳した方が本来のニュアンスがよく出るように思う。実際、自ら進んで学ぶところに人間本来の自由が広がる。塗り絵は自由ではない。白い紙に絵を描くところに自由がある。この自由を分かち合う者同士が集い、切磋琢磨して、学問の進歩と発展を生んできた。今までも、そしてこれからも。主体は、ここにある。

文化を築く主役は、時代の声には耳を貸すまい。「自分は自分、他人は他人」で押し通す。これが「進んで学ぶ」者の合い言葉だ。世間は早く花を咲かせよとせき立てる。だが、花を咲かせるのは、畢竟シロを愛した花咲かじいさんにしかできぬ相談だ。目的を設定し、ノウハウをまねるだけの欲張りじいさんが集まっても、灰をまき散らすことしかできないだろう。

一人一人が自らの尊い学びの魂を守り育てたい。それが学問の自由、学びの自由を守る大道につながると信じつつ。それが、人間の尊厳と自由の輝きを守る道に他ならない、そう信じるすべての人たちの気持ちを代弁するのが、ラテン語の「ディスケ・リベンス」である。もう十年。まだ十年。これまでお世話になったすべての人に感謝を捧げつつ、今までと何一つ変わらぬスタンスで新年度のスタートを切りたいと思う。(文責 山下太郎)