宇梶 卓

「学び」においては、間違いを犯すことは避けられないことです。世の中にはパーフェクトな人間は存在しませんから、必ず何らかのミスをしてしまいます。それは学校での勉強もそうですし、社会に出てからも然りです。

そして一般的に、間違いというのはネガティブなものですから、できるだけ是正することが望ましいとされています。間違いを犯すことは恥ずかしいこと、そのような通念が存在するように思えます。

しかし他方、間違いにはどこか創造的なところがあります。ある事柄について間違いを犯したことに気づいたとき、「自分は何でこんなミスをしたんだろう」と反省し、その意味を深く考え、自分の頭で納得するようになるからです。

つまり、間違いには主体的な思考を促すところがあります。逆に、単に与えられた情報(先生が言ったこと、黒板に書いたこと)をそのままインプットしているだけの人間には、ある意味で「間違い」というものは存在しませんし、そこには主体的な思考もあり得ません。

いま「ことば」のクラスでは、授業の冒頭で漢字の小テストを行なっています。生徒たちは、パズル的な感覚があるからでしょうか、漢字が大好きで、喜んで取り組んでくれています。

それはさておき、漢字の小テストをしていると、当然ながら生徒たちはさまざまなミスをします。分かりやすい例では、「新聞紙」の「新」を「親」と書いてしまったり、「毛」を「手」と混同してしまったり。絵本を読んでいて、「地面」ということばを「いけめん」と読んでしまい、「それじゃあイケメンだよ」とお互い笑ってしまったこともあります。

こういったミスは、子どもの頃に誰しも経験したことがあることでしょう。しかし本当に重要なのはここからで、何故そういうミスをしたのかということを生徒たちは考えるようになります。

「新」と「親」、形がすごく似ている。偏が同じだ。それに音読みだと同じ発音だ。そうか、だから間違えたのか。これからは気をつけよう。

こうして、この生徒は間違いを通じて、この二つの漢字についてもっと深く学んだことになります。「地」と「池」についても、漢字は似ているけど偏は違って、地の偏は「つちへん」で「土」の意味、池の偏は「さんずい」で水の意味なんだよ、とこちらから説明したら、「あー、そうなんやー」と言って納得してくれました。

ある高名な哲学者が、「間違いを恐れること、それ自体が間違いだ」と言ったそうですが、至言とも言うべきだと思います。間違えることは決して恥ずかしいことではない、むしろそれを避けてしまうことの方が問題でしょう。

小学校も低学年の頃は、まだまだそういったことに対する羞恥心が弱く、その意味でも素直に学べる時期だと言えます。そんなことを考えながら、生徒たちと一緒に学んでいます。日々新たな発見に溢れています。
(2005.11)