学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや――根気強く学び続けるために大切なもの

学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや――根気強く学び続けるために大切なもの

親として子どもの学習をどう支援すればよいか。私は、親こそ復習の大切さを伝える人であってほしいと思います。親は他人に先んじて何かの知識を子に与えるのではなく、本人が「できた」と思い込んでいる「何か」について、本当にわかっていると言えるのか?本当にできたと言えるのか?本人と一緒にていねいに確認してほしいのです。

漢字で言えば、先生にマルがもらえる答案がかけたからそれでよい、という価値観ではなく、同じマルでももっと丁寧に書けるはず、と言ってとめやハネに気をつけて書き直すように指導できるのは親を置いて他にだれもいません。(学校の先生は一人の子にそこまでつきあえない)。先へ、先へ、というのが時代の風潮なら、後ろへ、後ろへ、というのが親の合い言葉であるべきです。

もちろん、先へ先へも大事なのですが、その合い言葉は放っておいても耳に入り、人を不安にさせます。だからこそ、家庭ではバランスをとるためにも足下を固めることの大事さを語ってほしいと思うのです。飛ぶ前にしゃがめ、と言いますように、しゃがめばこそ、自力で飛躍する力を蓄えることができるでしょう。

幼稚園児や小学校の低学年であれば、ちょっとでも新しい事を知っている自分を「偉い」と勘違いする傾向があります。どうしても背伸びの姿勢になり、足下がふらついています。私の述べていることは、放っておいても子どもは背伸びしたがるので、親は「足下を見なさい」と基礎の大事さを気づかせる人であってほしい、ということです。

その日の復習でもよいし、一年前に習ったことでもよいのです。必ず何か新しい発見があります。大げさな言い方をすると、その発見を親子で喜び合う空気作りが肝心です。今これに気づかなかったら後々たいへんになるね、今わかってよかったね、と。間違っても、なぜこの子はこんな簡単なミスをするのだろう、と思ってもなじってもいけません。すべてをぶちこわします。

先に進みたいという情熱のほとばしりを押さえる必要はありません。押さえるふりをすることが教育の極意です。これは前回の巻頭文で書いた「レス・イズ・モア」の考えと通じます。「家では先取りの学習はしなくてよい。それより学んだことに穴があいていないか。一年前に習ったことは大丈夫か?」と問うべきです(本音としてどんどん予習のできる子どもになってほしいとしても)。この言葉には一理あります。先取りを抑制すると、学校の先生の言葉を集中して聞く生徒になります。言い換えると、先取りをやりすぎると先生の話を聞かなくなる恐れがあります。

この話題に関して、私には忘れがたい経験があります。小学校のいつの頃だったでしょうか、父に毎朝漢字の書き取りをしてもらっていました。そのとき、自分の名前を書けと言われたことが一度ありました。「ふくざつ」という漢字を出題され、正確に書いて答えたのですが、父は私の指先の一瞬のためらいを見逃しませんでした。父いわく「それでは正解ではない」。「できたことに違いはない」と私。「では、自分の名前を書いて答えよ」。「そんなことは簡単だ。ほら、このとおり」。「よろしい。では聞くが、さっきの問題は、今のと同じくらいすらすらと答えられたのだろうか」。

子どもなりに「一本取られた」と思いました。この経験を通じ、私は安易に「できた」と言わない(思わない)子になりました。以後の勉強において、「できる」の基準が俄然厳しいものになりましたが、それは今から思えばありがたいことだったと思います。

最後にタイトルの言葉について一言述べます。「学びて時に之を習ふ、亦説ばしからずや」とは、『論語』の冒頭を飾る言葉です。「復習することは楽しい経験だ」と孔子は述べています。私が上で「復習」の大切さを語ったのは、それが学びの楽しさに直結することを自分の経験に照らして実感するからです。山の学校の掲げる「楽しく学べ」(Disce libens.)のモットーも、この文脈で理解していただけると幸いです。

山の学校代表・山下太郎