楽しく学べ──Disce Libens.

山びこ通信巻頭文(2011.11)

楽しく学べ──Disce Libens.

ディスケ・リベンス。もとはアウソニウスが手紙に書いた言葉で、短く印象的なのでその後格言として知られるように。訳語だけを見ればセネカの「楽しむことを学べ」と似ているが、こちらは「同じ学ぶなら楽しく学べ」ということで、「真の喜びは何か」といった哲学的問いとは無関係である。

本来学ぶことは文句なしに楽しい。赤ん坊や幼児を見ればそれは一目瞭然である。その楽しさはひとことで言うと挑戦する楽しさ。自分で「よし、やろう」と決めたことに挑戦し試行錯誤するのが本当の学びである(人は失敗から学ぶ)。

子どもはダメと言われたことを何度もする、と大人はこぼすが、子どもは誰もがチャレンジ精神いっぱいである。それがいつのまにか「やれと言われたことしかしない」、そう言って大人はまた嘆くのである。「ダメ」とか「こうしなさい」という言葉がそう導いた可能性も大である。といって、子どものすることを100%放任するのが答えでもなし。

そこで表題の言葉の出番である。子どもの学びをどうする? と考える前に大人は自分の学びをどうする? と考えるべきではないだろうか。子どもは模倣の天才で、大人の真似をして育つ。であれば、大人こそおおいに「楽しんで学ぶ」べし。子どもはそんな大人の姿勢に感化を受け、過干渉からも解放されて…。一石二鳥だと思われる。

今の日本、「楽しく」という言葉は誤解されやすい。とかく「楽しむ」と言うと安易に聞こえるようだが、事実は逆で、それは TV やゲーム等の「もてなし」による楽しみとは本質的に意味が異なる。

学びの楽しさとは、楽をして学ぶことではけっしてない。汗をかいて自分の足で山道を登ること。これが学びの真の楽しさだ。「楽をして学ぶ」とは、車に乗って山頂を目指すことに違いない。退屈するのはどちらだろう。人生の思い出に残るのはどちらだろう。

自分で山道を登ること。そんな学びは何だろう。私からのアドバイスはただひとつ。「読もう」と決めた本(できれば古典)を最後まで読むことだと思う。読書法については様々なアイデアや議論を見聞きする。それは二千年前も同じことであった。ローマの政治家小プリーニウスは手紙の中で、「多読より精読が大切だと言われている」という意見を紹介している。

小プリーニウスは伯父の大プリーニウス(博物学者)を尊敬していた。知人にその読書法を尋ねられて、「彼は本を読むときは必ず抜書きをした。何に役にも立たないほどダメな本は一冊もないから、というのが口癖だった」と答えている。抜書きは、今でも通用する精読の王道だ。

一方、ローマの哲人セネカは旅を例に取り、あちこち旅を続ける人間は、各地に知人はできるが真の友人はできない、読書もあれこれ読み散らかすのではなく、少数の本と深い信頼関係を結ぶべきである、と述べている。これまた精読の勧めである。

セネカにとってじっくり付き合うことのできる本とは、すばり、古典と呼ばれる作品のことであった。そこではソクラテスと語り合うこともできる、と言っている。並み居る賢者たちはいつでも面会に応じてくれるばかりか、手ぶらで返すことはない、とも。

一冊の本をじっくり最後まで読み通す。学校教育では望めない。(山の学校を除き)どこの塾でもやっていない。学校ではそれこそ他人の作った「抜き書き」をランダムに読まされるだけだ。本の選択に迷ったら、黙って古典と呼ばれる作品を読むべし。10代の頃にどれだけ古典にふれ、生涯の友と呼べる作品に出会えるか。読んで理解できなければ自分が悪い。素直にそう思えるのも古典を読めばこそ。赤線を引きながら何度でも登頂に挑戦すべき。山頂から見える景色の広がりは格別である。

以上、学びの楽しさについてふれ、その一例を紹介させていただいた。山の学校のモットー(校訓)は、このディスケ・リベンスであることも最後に記しておきたい。

山の学校代表・山下太郎