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そうだ、ラテン語やろう!――今なぜラテン語なのか

山びこ通信2017年度春学期号(2017.06.27発行)より、巻頭文をご紹介します。

そうだ、ラテン語やろう!――今なぜラテン語なのか

山の学校代表 山下太郎

 私はこのたび縁あってラテン語の作品(キケローの「スキーピオーの夢」)の注釈書を書きました1 。専門書ではなく、初学者向けの独習書です。「ラテン語講習会」 2 の教材を元にしたもので、初級文法を終えた人を念頭に置いた丁寧な解説を心がけています。原文の一字一句すべての単語に文法的説明を施し、文脈に即した訳語と逐語訳を添えました。以下、この本を書いたねらいと、なぜ今ラテン語か?ということについて、思うところを述べます。
 「ラテン語」と聞くと、「難しい」というイメージをもつ人が多いようです。英語が苦手な人にとって、英米人が「苦手」と告白するラテン語は、きっと英語の何倍も難しいのだろうと想像するのは自然なことです。しかし、それぞれの言語をまったくのゼロからスタートした場合、ラテン語の発音は基本的にローマ字読みでよいので、英語よりもとっつきやすいのは事実です。

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「三つ子の魂」の行方──幼児教育と学校教育をめぐって

山びこ通信2018年度春学期号(2018.02.28発行)より、巻頭文をご紹介します。

「三つ子の魂」の行方−−幼児教育と学校教育をめぐって

山の学校代表 山下太郎

 英語で「子ども」をインファント(infant)と言いますが、原義に照らすと「言葉を話せない者」という意味になります。赤ちゃんもそうですが、言葉を自由に操れない小さな子どもたちは、大人に何かを訴えるとき、言葉より行動や態度で──泣いたりすねたり怒ったりして──様々なメッセージを送ります。発する言葉も字句通りに受け取れないケースが多々あります(「きらい」は「すき」の意味であったり)。周囲の大人が、そうした「声なき声」も含めた子どもの「心の声」に日頃から注意深く耳を傾け、彼らの「心そのもの」を理解しようと努めるかぎり、子どもたちは安心して自分の思いや考えを「言葉」に託して他者に伝えるようになります。

 この「安心」を子どもたちが幼児期に日常的に実感できるかどうか。これは子どもたち一人一人の人生にとっても、また子どもたちを受け入れる社会にとっても、大きな意味を持ちます。子ども同士の言葉のやり取りは、大人から見れば不完全で、しばしば誤解や争いに発展します。相互理解のためには、ときには大人が間に入ってそれぞれの「心の声」を「通訳」して双方に──ときには保護者に──伝える必要もあります。「過保護」でもなく「放置」でもなく、程よい頃合いを見計らって、程よい言葉を足したり引いたり、なぐさめたり、励ましたり。幼稚園の先生の仕事の一つは、そうした子どもたちの心を理解し、「通訳」をすることだと思います。

 幼少期に限らず、自分の思いや考えを心から共感してくれる大人に囲まれて育つかどうかは、小学校以上の学校教育においても、大きな意味を持つと考えられます。学校教育の基本は言葉を用いて行われます。授業も、友だちとの会話も、様々なクラスの活動も、言葉なしには成り立ちません。その言葉のやりとりに子どもたちが自信をもって臨むことが学びの基本ですが、その鍵を握るのが幼児教育であり、家庭での言葉のやりとりです。

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温故知新と西洋古典

山びこ通信2017年度秋学期号(2017.11.08発行)より、巻頭文をご紹介します。

温故知新と西洋古典

山の学校代表 山下太郎

 「古今東西」という言葉があるが、「東の今」を生きる日本人にとって、一番距離の遠いのが西洋の古典(クラシックス)である。ここで言うクラシックスは音楽のクラシック(西洋古典音楽)のことではない。クラシック音楽なら幼稚園の子どもでもピアノを習って親しんでいる。他方、西洋文明のバックボーンをなすクラシックス(西洋古典学)に我が国の教育は無関心を決め込み、子どもたちが学校教育で接する機会は皆無に近い。
 一例として、プラトンやキケロの翻訳を読み議論する機会が学校で用意される世の中になればと心から願う。これらは西洋の古典であると同時に、人類の古典でもある(音楽のクラシックがそうであるように)。それが難しいとしても、せめて国を代表する政治家を志す若者には、西洋古代の哲人たちが国家について何をどう考え、どう論じたか、学んでほしい。
 グローバル時代と言われて久しいが、我々はいまだ和魂洋才の呪縛から逃れることができずにいる(今は和魂の学びも怪しい)。古典は社会の常識を作る。戦後古典をなおざりにしてきた弊害が今の世相に表れ、前代未聞の非常識が連日のように新聞を賑わせている。西洋古典は世界の常識を形成する。日本は自国のことだけを考えてよいわけではない。地球の未来、人類の未来に責任を持つために、東洋の古典とともに西洋の古典を学ぶ必要がある。

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和して同ぜず――読書力を身につけるために

山びこ通信2016年度冬学期号(2017.02発行)より、巻頭文をご紹介します。

和して同ぜず――読書力を身につけるために

山の学校代表 山下太郎

幼稚園から小学校に上がると、子どもたちは無意識のうちに「同じもの」を目指すように促されます。「同じもの」とは文科省の定めた「正解」であり、国語の勉強を見ても「答えは一つ」ということになります。もちろん漢字の書き取りや算数の問題などを見れば、答えが一つであって当然なわけですが、国語も算数も、またその他の科目についてよく考えると、本当は答えは一つではないところに、あるいは一つの答えにたどり着くのに様々な道があるところに個々の教科の面白さが潜んでいます。

中学や高校では、試験で「満点」を目指す態度がいっそう奨励されますが、「百点を目指そう」と張り切る者はごく一部で、多くの生徒は次第に「無理しないでおこう」と決め込みます。一方、大学と高校の「学びのギャップ」は大きく、かりにセンター試験で満点近く取る生徒でも、大学に入ってカルチャーショックを味わう可能性は十分あります。というのも、よく言われるように、大学では知識を覚えること以上に、自分で考える力が問われるからです。

大学で教える先生方から出てくる一番の不満は、学生が「言われたこと<しか>しない」という点にあります。「言われたこと<を>しない」ではありません。試験範囲の勉強はちゃんとするのですが、それ以上の取り組みが不足していることに物足りなさを感じるのです。大学で主体的に学ぶには、中学、高校時代に、試験の成績を上げることと並行し、自分流の学びのスタイルを確立して勉強に取り組むことが不可欠です。様々なジャンルに関心を持ち、学校で教えない領域もあえて学びの対象にする。それには「読書」が一番です。

読書体験が豊富になると、文章を書く力が身につくだけでなく、想像力、発想力が豊かになります。「一を聞いて十を知る」タイプになれる、と言えばよいでしょうか。簡単にわかったふりをしないという態度も身につきます。本をよく読む学生は大学の授業後に積極的に質問し、先生との意見交換に喜びを見出します。一方、本を読まない学生に限って、たまに質問したかと思うと「試験範囲を教えて下さい」といった類いのことしか聞きません。教える側から見れば、その差は歴然としています。

読書経験を深めるには、図書館を利用するのが最も手軽でお金のかからないやり方です。多読派にとって、図書館は天国のような環境です。一方、読書には多読と精読があり、私自身の経験に照らすと、図書館で借りる本はあくまでも多読用であって、精読には向きません。精読するさい、本に縦横無尽に線を引き、書き込みをするためです。一度目はざっと読み通し、二度目に大事な所や気になるところに線を引き、三度目はそれらに注意しながら読み返し、最後にもう一度(あるいはそれ以上)通読します。これはデカルトが読者に期待した読書法ですが、さらに重要なことは心に残った箇所をノートに抜書きすることです。こうやって真剣に読んだ本の内容は頭と心から消えません。

多読にせよ精読にせよ、一人で本を読む場合、その弊害に気をつけなければなりません。多読と言っても読む本はどうしても偏りますし、精読については特にそうなります。また、どれだけ繰り返し一冊の本を読み返したとしても、自分の受けた印象や解釈は独りよがりなものになりがちです。その弊害を弱めるため、また、他人の意見を聞くことで積極的に新しい視点を得るためにも、読書においては第三者の存在が大きな意味を持ちます。

大学には自主的な学生同士で「読書会」を開く伝統がありますが、今も、これからも、この伝統が健在であることを祈ります。一方、中学生や高校生の場合、自分たちだけで同じことを試みるのは少し無理があると思われます。まさに、先達のあらまほしきかな。学校の先生にガイド役をお願いできたら最高です(ただし先生の価値判断に偏りがないことが望まれます)。科目を問わず、学校の先生も、本当は意欲のある少数の生徒と一緒に読書会を開けるなら、それにまさる喜びはないだろうと思われますが、いかんせんお忙しい。さりとて「満点主義」の進学塾にその代役を期待することもできません。

そこで、山の学校の出番です。私たちにとって、それは可能であるというより、それこそ山の学校が一番やりたいことなのです。2016年度から小学生の部に「れきし」のクラスが誕生しましたが、内容は大学の読書会と同じ、否、それ以上に丁寧にテクストに取り組んでいます。本を交替で音読し、未知の語彙があれば辞書で確認します。その後活発な議論が展開することは言うまでもありません。特筆すべきは、このクラスが当時小3男児の強い希望で開設された点です。

一方、中学生や高校生にとっては、学年が上がるにつれ試験対策で頭がいっぱいになるでしょうが、感性豊かなこの時期にこそ、先生や志を同じくする仲間とじっくり本を読み、意見を交わすことに大きな意味があるのです。山の学校の先生はみな、なんとか力になりたいと手ぐすねを引いています。今用意されたクラスに合流するもよし、このようなジャンルの本が読みたいと希望を伝えてもらうのもまたよしです。

はじめにふれたように、学校の勉強は全員が同じ答えに辿り着くことを理想とするのに対し、山の学校の各クラスは「和して同ぜず」の世界を目指します。付和雷同をよしとしがちな世の中にあって、私たちは、今までも、そしてこれからも、和気あいあいとした空気とともに、一人一人の「同ぜず」の精神を守っていきたいと思います。(山下太郎)

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Disce gaudere(楽しむことを学べ)――「好き」と「得意」の思い出作りに向けて

山びこ通信2016年度秋学期号より、巻頭文をご紹介します。

Disce gaudere(楽しむことを学べ)――「好き」と「得意」の思い出作りに向けて

山の学校代表 山下太郎

幼稚園時代と異なり、小学校に上がると数字による「評価」がついてまわる。しかし、チャレンジし続ける子どもにとって、「評価」はいつも脱ぎ捨てた過去であり抜け殻である。子どもは大人と異なり、一日で「苦手」を「得意」に変える力をもつ。乗れなかった自転車もたった一日で乗れるように。
大人は子どもの(教科の)欠点を見て見ぬふりは出来ないため、それを克服するよう促すが、いわば抜け殻を拾い上げて小言を言うようなものだ。そこに親心があるとも言えるが、課題の克服は本人の自覚を待つよりほかにない。大人が子どもの学習に口をはさむほど、子どもはやがて「言われたこと」しかしなくなる。つまりチャレンジする心を忘れていく。これほどもったいないことはない。

現実問題として、学校の勉強は「言われたこと」をするタイプの課題が多くを占める。しかし、チャレンジ精神旺盛な生徒は、日頃から先生の言葉に鋭敏に反応し、一を聞いて十を知る。また、課題として先生に「言われたこと」もポジティブかつクリエイティブにこなす力をもっている。苦手なジャンルが立ち現れても、勉強の仕方を工夫しゲームのようにクリアするし、その一方で元々「好きなこと」は、スポーツでも音楽でも、意地でも守り抜く。関心が学問に向かう子は、誰に言われなくても図書館で興味の赴くまま本を読みふける。

子どもには本来それだけのポテンシャルがある。それを目に見える形で実感出来るのが幼稚園時代である。今の子どもたちは、幼稚園時代にどれだけ五感を使って遊びこめるだろうか。その経験の有無が、その後の人生を――人間としてのポテンシャルの大小を――決定づけると言って過言ではない。「遊び」は工夫と挑戦とチームワークの原体験になり、「好き」と「得意」の感覚の基準を作り上げる。ビデオやゲームといった電気仕掛けの「お楽しみ」とは異なり、自分一人で、あるいは気の合った友だちとともに作り上げる手作りの遊びはお金もかからず、飽きることを知らない。泥団子しかり、虫取りしかり、鬼ごっこしかり。子どもたちは大人が思う以上に手間暇かけて「楽しさ」を追求し、子ども本来のポテンシャルに磨きを掛け、チャレンジ精神を養っていく。

「遊び」とともに重要な要素がもう一つある。子どもが「一を聞いて十を知る」タイプに成長してほしいと願うなら、幼稚園時代はもちろん、小学校時代にも本の読み聞かせを続けるとよい。読み聞かせのルーツは子守歌に遡るだろう。子守歌を歌う親は、子どもに何かを命令するのではなく、喜びと楽しさを分かち合おうとして自然に歌が出る。それと同じく、読み聞かせをする親の声は、子どもの「好き」の感情を安定させ、自信(自己肯定感)をわき上がらせる。それは子どもの言葉の感性を磨き、夢を与えると同時に何かに挑戦する心の根っこを守り育てるだろう。

子どもたちの活躍する10年、20年先の社会を思い描くなら、親は数値化された評価に汲々とするより、子どものチャレンジする眼差しを見守ることが肝心だと思われる。子どもの目線の先には何があるのだろうか。今も「三つ子の魂」を忘れず、一心不乱に何かに打ち込めているか、どうか。そう自問して、もしそうなら何も言うことはないし、もしそうでないなら、何かがそれを阻害しているのであり、自分に思い当たるところがないか、内に自ら省みるとよい。

単に「言われたこと」を忠実にこなしていれば、学校では問題なく過ごすことは出来るし、志望大学に合格することも出来る。しかし、その先が何より肝心である。大学に関して言えば、「学びたいこと」が何か、自分でもわからずに途方に暮れる学生は少なくない。その一方で、森羅万象に興味を持ち、「大学はフルコースのバイキングだ」と言わんばかりに何でも貪欲に学び続ける学生もいる。学歴以上に大事なのは生きる姿勢、学ぶ姿勢ということになる。

繰り返しになるが、子どもには本来無尽蔵とも言えるポテンシャルが秘められている。その力がどこに向かうのか、誰にもわからない。しかし、それは必ずや「何かよいもの」に違いない。今までもそうだったし、これからもそうである。親には幼稚園の入園前の不安な気持ちを忘れてほしくない。その後子どもは自立の道を一歩一歩歩むことで、たくさんの「出来なかったこと」が「出来る」ようになった。遡れば、赤ちゃんの頃を忘れてほしくない。手取り足取り教えたわけではないのに、子どもはある日つかまり立ちをし、いつの間にか、一人で歩き始めたのである。大人は黙って子どもの生きる眼差しと姿勢を見守るのがベストである。

子どもの「夢中」の眼差しの先にどれだけ大きく豊かな世界が開かれているかは、誰にもわからない。しかし、きっと学校に上がっても、赤ちゃんの頃、幼稚園の頃と変わらぬチャレンジ精神で、「すべき」ことを「好き」に変えて夢中で学び続けるに違いない。親のすべきは、そんな子どものチャレンジをよしとし、惜しみなく応援することであり、そこに親としての喜びを見出すことができれば上出来である。子どもが本来の「好き」と「得意」の気持ちに導かれながら学校生活を充実して過ごし、社会に出てからその経験を感謝でふりかえる。そして、一人でも多くの人にその感謝のお裾分けをしたいと願って仕事を創り、新たな挑戦を続ける者こそ、これからの世の中をよりよく、明るいものにしていくに違いない。「山の学校」は、そんな子どもたちの「好き」と「得意」の思い出作りをお手伝いする場所であり続けたい。(山下太郎)

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素読と子どもたち

『山びこ通信』2015年度冬学期号より、巻頭文をご紹介致します。

素読と子どもたち

山の学校代表 山下太郎

 私は山の学校で「論語」の素読を担当しています(月に一回、小学生対象)。やり方は幼稚園で行なっている俳句と同じです(週に二回、年長児対象)。どちらも正座をして挨拶し、黙想するところから始まります。俳句は五、七、五の切れ目まで、一方、「論語」は切りのよいところまで私が先に言葉を発し、子どもたちがそれを復唱します。
「論語」の素読は今も草の根レベルで行われていると思われますが、幼児を対象とした俳句の素読はおそらく全国的にもまれだと思います。これは幼稚園の創設当初に祖父の発案で始まったものです。「幼児と俳句」と題したエッセイ(『この道50年』所収)の中で、父が祖父の心中を次のように伝えています。
「俳句なら短かくて覚えやすいし、文学的なリズム感もある。就学前の準備教育とは違い、早くから知っていたからといって入学後の学習の妨げにもなるまい。幼児期にこそ、日本古来の最短詩である俳句を通して、知育よりもむしろ詩ごころの根っこを育ててやりたい」。
昔と今と、子どもたちを取り巻く環境は大きく変化しましたが、今の子どもたちが、俳句や「論語」といった伝統に根ざした「大人の言葉」、「本物の言葉」を渇望していることは実践して初めてわかります。素読とまでいかなくても、家族で百人一首をすれば、読み手となる大人は誰もがこのことを実感するのではないでしょうか。
さて、山の学校の「論語」では、私は本来の素読を離れ、子どもたちにいろいろな問いを出すようにしています。例えば、「徳孤ならず。必ず隣あり」を紹介した後、「この『とく』とはどんな漢字かな?」といった具合に。下の学年から尋ねていくと、ある生徒は「得」、別の生徒は「特」と答え、最後に上級生が「道徳の徳」と答えてくれます。
知識の確認をするためというよりも、こうしたやりとりそのものを大事にしたいと思い、私はできるだけ子どもたちにとって身近な話題を取り上げ、対話(問いと答え)の時間をもつようにしています。「論語」にかぎらず中国古典の魅力は、一字一句、一文一文が多様な解釈を許容する点にあります。すでに知っていると思っている言葉も、観点を変えて問い直すと面白い発見があります。
子どもたちの反応を見ていると、ある程度わかりやすい言葉とそうでない言葉があります。「利によりて行えば怨(うら)み多し」や「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」などは、内容を説明すると低学年の子どもたちも「なるほど」という顔をします。逆に「君子は器(き)ならず」は、「器」でいけない理由を子どもに伝えるのは難しく、また、「巧言令色すくなし仁」も、説明に手こずる言葉です。もちろん、素読ということでいえば、言葉を尽くして理解してもらうことが目的ではありません。
昨年の某日。この日は許可を得て幼稚園の年長児が参加していたこともあり、基本に戻って冒頭の言葉のみを扱うことにしました。

子曰く(しのたまわく)、学びてしこうして時に之(これ)を習う、また説(よろこ)ばしからずや。朋(とも) 遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや。

慣れ親しんだこの言葉を全員で朗誦した後、私は子どもたちに次のような話をしました。
「復習することは楽しいですか。家に帰って学校で学んだ事を復習するのは大事です。コツをいいます。六年生は五年生、五年生は四年生の勉強に必ずうっかりしていること、積み残しがあります。二年生は一年生で習ったことをやり直すと『なるほど、そういうことだったのか』とわかることがあるはずです。その発見は『よろこばしからずや』です。では尋ねます。一年生は何を復習すればいいのでしょうか」。
こう聞くと、みな困った顔をしました。一人の小学一年生が答えました。「幼稚園には教科書はない」と。お見事。その通りです。次に、二年生が答えました。「一年生でもすでに習ったものがある。それをやり直せばいい」。これもその通りです。私は次のように話を続けました。
「今日集まったみなさんは幼稚園時代に何を学びましたか。俳句の時間に園長先生が言ったことを思い出して下さい。『姿勢が大切。小学校に行ってもよい姿勢で学んで下さい』と繰り返し言いましたね。そのことはどうしても忘れがちです。ほかにもたくさんのことを幼稚園時代には学びました。今できていることもあれば、できていないことや忘れてしまったことがあるかもしれません。そのようなことをもう一度思い出してみて下さい。そして『なるほど、そういうことか』と納得できるなら、それもまた『よろこばしからずや』です。
孔子は学校の勉強を学ぶことだけを『学ぶ』と言ったのではありません。むしろ、幼稚園時代にみなが大切にした優しさや思いやりや勇気の一つ一つを大人にもわかるように説明していると先生は思います。たとえば、みなさんは、手をつないで幼稚園に通いました。年少児が泣いたとき、『だいじょうぶ?』とやさしくしてくれました。そんなみなさんを孔子は『君子なるかな』と言うでしょう。君子とは立派な人という意味です。大人だけが立派だという意味ではありません。今いるみなさんも、良い姿勢で学び、家族や友達を大切にして毎日を過ごせば、君子と呼ばれるのです。この『論語』という本にはそういう生きる上で大切なことを『思い出す』ヒントがいっぱい書かれています。そしてその大切なことは、幼稚園ですべてみなさんは学んだのです。これからも、がんばって声に出していきましょう」。
冒頭の言葉はこれまで何度説明したか、何度声に出したかわかりません。子どもたちの真剣な姿勢と表情が、この日は上のような話を導いたと感じています。私にとっても、素読の時間は新鮮な言葉との出会いの場になっています。 (山下太郎)

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Homo sum. 私は人間である。

『山びこ通信』2015年度秋学期号より、巻頭文をご紹介致します。

「Homo sum.  私は人間である。」

山の学校代表 山下太郎

 10 年、20年先の未来を考えるとき、どのような教育が必要とされるのだろうか。インターネットが社会の仕組みを変えたように、今後多方面でロボットの活躍が期待される中、人間にしかできない仕事は何かがますます問われるに違いない。

 すでに複数の研究機関が予測しているように、これから20年先まで存続する職業は、現在の5割程度といわれる。かりにそうであるなら、従来のようにロボットが一瞬で採点できる問題に最適化された「人材」でなく、ロボットが採点しえない価値を生み出せる「人間」を育てることが教育界では強く求められるだろう。

 今後重要になるのは、一言でいえば「人間による人間のための教育」ということになるが、それは具体的にどのようなものだろうか。このような問いは何か目新しい答えを期待させるが、私はすでにこの世に存在してきた教育がベースになると考える。ただし、従来の知識の多寡を競わせる教育の影に隠れていた教育である。

 我田引水のそしりを恐れずにいえば、幼児教育こそロボットが代行できない教育の象徴だと思う。幼稚園に通知簿はないが、人間としての評価(言葉による励まし等)がそこにはある。園児は人として、つまり偏差値や100点までの数字に置き換えられない存在として認められ、自由に遊び、夢中になって汗をかくことができる。

 幼児にとっての遊びは能動的な学びの機会である。友だちとの遊びを通して、子どもたちは思考力や想像力、問題解決力を養っていく。社会性も、優しさも、いたわりも、友情も。「三つ子の魂百まで」といわれるように、幼児教育は人間の魂の根幹にかかわる点で、今後ますますその重要性を高めるにちがいない。

 幼児教育だけではない。小学校以上の教育においても、人が人を教え、人と人が切磋琢磨して学びあう場所であるかぎり、そこにはひとりひとりの努力を見守る温かいまなざしがあるし、これからもあるだろう。ただし、小学校以上では何かモノサシを当てて子どもたちを評価しないといけない現実がある。このモノサシを取り去っても有意義な教育ができるかどうか。ロボットが一瞬で満点を取るようなモノサシを今後どれだけ生徒たちに当てはめ続けるのか。

 本来大学は、幼児のような自由な心をもった人間の集う場所のはずである。歴代のノーベル賞受賞者が口をそろえていうせりふは、「面白いからやる」で一致している。創造と発見はロボットのもっとも苦手な領域であるが、今の高校に至るまでのモノサシ教育は、大学で行う学問研究を生徒たちから遠ざけることはあっても、近づけることはないだろう。知的創造は、「正解」があるという前提で行われる椅子取りゲームではなく、むしろ幼児の没頭する遊びに近い。少し観察すればわかるとおり、子どもたちの遊びは試行錯誤と創造的模倣の連続である。

 ラテン語で「子どもたち」を意味するliberi本来の意味は「自由な人」であり、「幼い人」でも「小さい人」でもない。また、study(勉強、学問)はラテン語のstudium(熱意、情熱)に由来し、student(生徒、学生)は同じくラテン語のstudens(<真理を>熱心に求める人)に遡る。さらにラテン語で「学校」を表すludusの一般的意味が「遊び」であることは注目に値する。彼我の言葉のニュアンスの相違は、日本人の学問や学校に対する独自の価値観を浮き彫りにするが、今問われるべきなのはオリジナルの言葉の意味である。

 表題の「私は人間である」は、古代ローマの喜劇作家テレンティウスの言葉であり、「人間に関わることで自分に無縁なものは何もないと思う」と続く。ヨーロッパ精神の根幹をなすフーマニタース(人間であること)の理念を象徴する言葉として欧米では広く知られるものである。人間とは何か。この問いを極限まで問い続けた精神の記録がヨーロッパの文学、とりわけ古典文学に刻まれている。近未来において予想されるロボットの活躍は、「人間とは何か」の問いをいっそう際立たせるだろう。それに伴い、いまだ「洋才」偏重の日本社会が「洋魂」を真摯に問い求め、「和魂」を照らす確かな鑑を得るかもしれない。また、それによって普遍的「人間の魂」を見つめる時代を迎えるかもしれない。

 今後人間による人間のための教育、すなわち幼児教育を規範とする新しい人間教育が市民権を得、世の中の教育全般がより豊かな成果を生み出す方向に動き出すことを願わずにいられない。平成27年の今、このような願望はあまりに楽観的すぎると一笑に付されることは間違いないが、私のささやかな希望は10年、20年先の世の中においてなお、山の学校の教育が新しい私塾のあり方を示す一つのexemplum(範例)として世の片隅を照らし続けることである。(山下太郎)

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力があると思うゆえに力が出る

『山びこ通信』2015年度春学期号より、巻頭文をご紹介致します。

「力があると思うゆえに力が出る」

山の学校代表 山下太郎

 表題はウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』(5.231)にみられる表現です。

船による競技が最大の盛り上がりを見せる場面で、勝利を確信し全力を尽くすトロイアの漕ぎ手たちについてこういわれます。

このとき、喚声は倍に高まる。あとから追う船に全員が
熱烈な声援を送り、天空が割れんばかりの叫喚が響く。
こちらでは、栄光は自分たちのもの、栄誉は手中のもののはず、
手にできぬは恥、誉れのためには命を賭してもよい、と思う。
こちらには僥倖が力を与えている。力があると思うゆえに力が出る。
(岡道男、高橋宏幸訳、京都大学学術出版会)

下線部に当たる元のラテン語(Possunt quia posse videntur.)は、「自信があればこそ実力が発揮できる」という趣旨の名句として、今も欧米で用いられます。ウェブで調べると、英訳の They can because they think they can.も人口に膾炙しているようです。これを日本語で平たく訳せば、「できると思うからできる」となります。実に簡単明瞭。表現の点でも内容の点でも子どもにもわかります。

と思いきや、この言葉が名言として受け止められるのは、やはり内容が逆説的だからだと思います。以下は表題の言葉にヒントを得たエッセイです。

大人の常識に照らすと、「できると思うからできる」のではなく、「実力があるからできる」のであり、単に「思うだけではダメだ」となるでしょう。「努力」が強調されるのはそのためです。しかし、これは大人に通用する正論であり、子どもの場合は自信が何より大切で、それさえあれば実力は後からいくらでもついてくる、と私は思います。

子どもは人生経験が少なく、大人の目から見ればできないことだらけです。しかし、大人と違うのは挑戦する心で満ちあふれていることです。「面白そうだ。よし、やってみよう。自分にもできるはず」。これが子どもの自信であり、何かに挑む心がまえです。思えば、赤ん坊のときにも言葉を発したり、一人で歩けるようになったり、子どもは挑戦の連続で成長していきます。しかし、そのような自信や挑戦する心も、いつかどこかでしぼんでしまう可能性があります。あるいは逆に成長と共に自発的な努力を伴いながら、いつまでも輝き続ける可能性もあります。

この違いを生むポイントは何なのでしょうか。人生行路は様々な要因が複雑に絡むため、詳しいことは誰にもわかりません。ただ、私は幼児教育に携わる者として、何かに挑戦しようとする子どもに対し、周囲の大人がどのような態度を取るのか――自信をくじくのか、自信を守るのか――が決定的に大きな影響を与えると考えます(それゆえに幼児教育は重要な意味を持つと信じます)。

このことについて、一郎先生(先代の園長)は「ぐう・ちょき・ぱあ――完全を求める親――」(『山下一郎遺稿集』所収)というエッセイの中で、子どもの自信を守るコツを次のように述べておられます。

「今できないことを性急に求めるよりも、今できていることをまず認める。これが、わが子にやる気を起こさせ、自信を持たせるコツです。」

大人にとって子どもの未熟を指摘し、努力を命じるのは容易ですが、それは「今できないことを性急に求める」ことにほかなりません。「今できていることをまず認める」。大人にはなかなかこれができません。一方、大人が「今できていることを認める」なら、子どもは次のステップに向かって挑戦する気持ちになれるでしょう。

すでに何度か書いていますが、かくいう私がそうでした。小学校の低学年の頃、テストで70点をとったとき、一郎先生(父)は「7つできて70点ということは、100点と同じことだ」と励ましてくれたのです。私は時間内に10問中7つしか手をつけられませんでしたが、「手をつけた7つの問題のように残りを頑張れば、次は8つできるかもしれない」と。嘘のような本当のような記憶でしたが、上に挙げたエッセイの中に「70点は100点よ」という小見出しがあり、そこを読むと子どもの名前こそN子ちゃんとなっていますが、「ああ、これは自分のことだな」と合点できるエピソードが記されていました。

父がそこで展開する議論は明快で、大人の完全主義が子どもの自信とやる気を阻害する、というものです。

「初めから完全でなければと意気込みますと、あとで完全になりうる力を持っていても、実力をついに出し切れず低迷してしまうということは、よくあることです。何事にも、じっと待つ、こころのゆとりが大切かと思います。『親は完全でない。まして子どもが完全であるはずがない』。この気持ちが根底にあれば、子どもにもっとゆとりを持って接することができるのではないでしょうか。」

このこととの関連で申し上げると、小学校の勉強については、大人が100点(=山頂)の位置に立って子どもを手招きするのではなく、0点(=ふもと)の位置から一緒に山登りを楽しんでほしい、と思います。そして、本当の勉強はここからここまでと範囲を限定するものではない以上、学校が「ここまでできたら100点」と決めた地点も通過点として軽やかに乗り越えて頂きたい、つまり、親も子どもとともに好奇心を輝かせ、どこまでも学ぶ気持ちを持ち続けて頂きたいと願います。大人がチャレンジする気持ちを失って、どうして子どもにそれを要求できるでしょうか。

学びの山を一歩一歩登る子どもとともに、自分も寄り添って一緒に学び直す気持ちを持てることは、大人にとっても幸せなことです。山頂からふもとの子どもを手招きするイメージでは、いらだちが増すだけです。子どもと一緒に立ち止まって景色を眺めたり、足下の草花を愛でたりしながら一歩一歩登るには、たしかに「心のゆとり」が不可欠ですが、それは学びの厳しさに対して「甘い」態度を取ることとは異なります。

以前にも書きましたとおり、私は小学校の高学年になるまで漢字の書き取りを父に見てもらいましたが、あるとき、口頭で出題された漢字について、一瞬「ん?」と考えてから正解を書いたことがあります。それを正解にカウントしてもらえず、「やりなおし」のリストに入れられたことが不満で、「ちゃんと書けた」と主張したのですが、「自分の名前がスラスラ書けるようには書けなかった」といわれたことがあります。学校の集団教育とは違い、家庭教育においては、こうした一人一人の指の動きや息づかいまで細心の注意を払って見守ることが大事であり、それはマンツーマンなら十分可能である、という一例です。

今、山の学校の母体である北白川幼稚園では、園児一人一人の「挑戦する心」を大切にし、毎日鉄棒や縄跳び、竹馬などに取り組んでいます。そこで最も大事な鍵となるものは、今例に挙げた意味での保育者の「目」であるといえます。それは子どもたちの一挙手一投足をていねいに見守り、ほめどころと励ましどころを正確に見極めるものでなければなりません。

子どもたちを励ますとは、けっして「がんばれ、がんばれ」と連呼することでも、やみくもに褒め続けることでもなく、昨日は鉄棒でここまでしか足が上がらなかったのに、今日はさらに上まで足をけり上げるようになった等の変化を正確に見極め、それを本人に伝えることです。

丁寧に見れば、子どもたちは毎日驚くほどの変化を遂げ、日々成長しています。しかし、その一つ一つの歩みは、見る目をもたないと「平凡」なものにしか見えません。目の前の課題を乗り越えようとして本気で打ち込む子どもたちが何より欲するのは、自らの挑戦の軌跡をそばでていねいに見守る大人の目です。私はそう信じ、目の前の園児たち、山の学校の子どもたち、さらには「子どものように」好奇心を輝かせる大人の人たちに接したいと願い、同じ志を持つ先生たちとともに日々試行錯誤を繰り返すのみです。道半ばではありますが、私たちの取り組みを応援してくださるすべての人とともに、これからもこの道を一歩ずつ歩んでいきたいと思います。(山下太郎)

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