「分析哲学の夕べ――将棋(言語)に駒(実在物)は必要ではなく、駒を語ることさえできない」

「分析哲学の夕べ」(2022年8月7日(日)18:00〜19:30に開催)の担当講師、入角先生による、より詳しい講座概要のご紹介です。

「分析哲学の夕べ――将棋(言語)に駒(実在物)は必要ではなく、駒を語ることさえできない」

 入角晃太郎

 哲学には、分析哲学という分野があります。分析哲学とは、言語という仕組みを考察することで世界の仕組みに迫ろう、という学問です。それは例えば、意識とは何かを考えるとき、われわれが使用する「意識」という言葉そのものの働きについて論じる、といった具合でなされます。これはある意味では当たり前のアプローチです。「意識」という語を抜きにして意識そのものについて語ることはおそらく不可能であり、言語の分析と完全に手を切った哲学的研究などおよそ考えられません。

私は言語に、とくに、「言語にはなにが言えないか」という問題に興味があります。例えば、今読まれているこの文字列が文章生成機械によって書かれることは可能でしょう。もちろんこの原稿は入角が書きましたが、しかし、そのことはここでは立証できません。なぜなら、同じことを文章生成機械も書くことができるからです。このような事情で、このテキストが誰によって書かれたのかすら、ここには書くことができないのです。

私はこのような「書けなさ」について、強い関心を持っています。ところで、現実世界の報道者・記録者とされている、世の歴史書ではどのように書かれているのでしょう。それらは実に雄弁に、この世界について語っているようではありませんか。歴史書には「書けなさ」の問題はないのでしょうか。確かに、「紫式部は源氏物語を書いた」という文は、現実世界に紫式部が存在したことを示しているように思われますが……。

ここで注目すべきは、かの文が、紫式部という人物がたとえ現実世界に存在していなくとも、読解可能であるということです。それどころか、先の文を読んで紫式部が現実に存在すると考えるのは、過剰な読み込みでさえあります。なぜなら歴史書は、「これはフィクションです」と銘打たずとも、一字一句変えることなく、フィクションとして語り直すことができるからです。あるテキストがフィクションではなく歴史書であるのは、われわれがテキスト外を参照しているからであって、その文中にそう判断すべき根拠があるからではないのです。

したがって、今読まれているこのテキストに対しても、それを虚心坦懐に読もうとするなら、過剰な読み込みは当然慎むべきです。つまり、ここで言及された「入角」を含むありとあらゆる人物・団体は、存在しないかもしれない、と思って読まれなければなりません。

過剰な読み込みを排し、テキストを世界から徹底的に孤立させたとき、言語は何を語り出すのか。本講座では、果たして言語がそれ単体で世界について何を語ることができるのかという問題について考えます。