「古代ギリシア人」にとって「ギリシア (人)」とは何であったのか

『ギリシア・ローマの歴史を読む』クラスでは、この春学期、古代史家モーゼス・フィンリーの論考集The Use and Abuse of Historyから、「『古代ギリシア人』にとって『ギリシア (人)』とは何であったのか」という根本的な問いを投げかける刺激的な論考」である、第7章“The Ancient Greeks and Their Nation”を選び、精読してきました。

熱心な受講生のご質問に、担当の大野普希先生が詳しい解説をしながらじっくり読み進めてきましたので、春学期は全部で約14項のうち、まだ4項半を読み終えたところです。

論考の中でフィンリーはまず、ヘロドトスの引用を用いて、当時のギリシア人にとって何が重要なことであったかを確認し、文化的には連帯しているのに、政治的にはポリスごとに分離しているという、逆説的な状況が当時のギリシア人の間に生じていたことを確認しました。

近代人にとっては、こうした逆説的な状況、すなわち、政治的な統一体を形成しえない「ネイション」には内在的な欠陥があるとみなされ、ギリシア人の失敗とされてきました。しかしフィンリーは、そうした逆説的な状況について、もっと注意深く見なければいけないと言います。

ギリシア人は広範に渡って点在して暮らしていたため、非ギリシア人との対峙により、かえって同胞意識・連帯感が芽生えたということ、そして、ギリシアを統べるような、中心的・統一的な権威がないことが、かえって異端的、分離主義的勢力を生まなかったこと、こうしたある種の危ういバランスの上にギリシアが成り立っていたことをフィンリーは指摘します。

また、現代的な視点から、マイネッケの二分法を手がかりにギリシア人というものを分析してもなお残る根本的な疑問として、「政治的な単位と文化的な単位が最後まで一致しなかったのは何故なのか」、この「何故」に答えなければならないとフィンリーは考えます。

フィンリーはこの問いに対し、どのような示唆を与えてくれるのでしょうか?

この続きが気になる方は、是非、秋学期(9月〜)からのクラスにご参加下さい。
フィンリーの論考を読解しながら、一緒に議論を深めていきましょう!

(2021/08/14 事務担当 梁川)