『高校数学C』クラス便り(2021年3月)

山びこ通信2020年度号(2021年3月発行)より下記の記事を転載致します。

『高校数学C』

担当 入角 晃太郎

 この講座では、教科書傍用問題集、『基礎問題精講』、『青チャート』などの、高校1・2年生向けの基礎的な問題集を解いてきました。その際、ちょっとした公式などもいざとなったら自分で導けるようにと、問題を解説するときは、使った公式がなぜ成り立つかを簡単に示すように心がけました。これは、ひとつには「公式を忘れても大丈夫にしておくため」ですが、そのためだけではありません。

 数学を習うということは、歴史などの学科を習うこととは違う営みであると思っています。歴史の教科書は、そのテキスト自身だけをいくら眺めていても、それが事実なのかどうかはわかりません。実際、歴史書のような書きぶりの、さも「もっともらしい」フィクションは実在します(酒見賢一『後宮小説』など)。あるテキストがフィクションではなく歴史書であることを知るには、テキストの外に出て、そのテキストが置かれている文脈を参照する必要があります。つまり、歴史を習うということは、そうした文脈に自分を接続することであると言えると思います。

 一方で、数学の教科書はどうでしょうか。この授業では『基礎問題精講』というテキストを用いましたが、この本が何らかの正しさを持っていると納得するためには、この本の置かれている文脈を確認する必要はあるのでしょうか。恐らくそうではないでしょう。数学の本は、仮にその本と無人島で出会ったとしても、何らかの真理を教えてくれると思います。数学の正しさは情報源の信頼性によってもたらされるのではありません。だから、数学の定理は、歴史上の出来事を知るようには学んではだめなのです。ある定理を知ったら、それを自分でも証明することが大切です。自分で証明できたということは、その定理は「いま、ここで」その正しさが確かめられたことになります。タイムマシンがない以上、歴史上の事件は直接見に行くことはできませんが、数学の正しさはいまここで見ることができます。自分の手で確かめることをしない勉強法は、数学の数学らしさを損ねています。数学を学ぶ上で「自分で導いてみること」は、数学の性格上、欠かせないプロセスなのです。教科書に出てくるすべての定理に厳密な証明を与えることはできないにしても、なるべく自分で納得しながら勉強を進められるような授業をしてゆきたいと思います。