英語講読 E.H.エリクソン「Identity Youth and Crisis」 次回「医学哲学講座開講予定(※)」クラス便り(2021年3月)

山びこ通信2020年度号(2021年3月発行)より下記の記事を転載致します。

英語講読 E.H.エリクソン「Identity Youth and Crisis」
次回「医学哲学講座開講予定(※)」

担当 中村安里

(※タイトル、本文中の「医学哲学講座」については、『身体とこころ』クラスとして開講の運びとなりました。2021年3月追記)

「絶望がないとアイデンティティーは手に入らないんです!」、初めてのクラスで私がクラスに参加していただいた方から聞いた言葉に思わずはっとした。今回参加してくださった方はいろんな問題意識を持っていて、その問題意識をもう一度言語化して、次のステップに進もうとされていました。私がしたことといえば僅かな手すりとしての役割を担っただけだったと思います。彼女の中でアイデンティティーというのは、以前はレジリエンスと同義に考えていたが、不登校の子どもたちへのインタビューなどを契機に、アイデンティティーとは簡単に手に入れられるものではなく、悟りに近いものだとおっしゃっていた。引きこもりだった子どもたちでそこから復活できた子どもたちはこんな状態の自分でも受け入れてくれた家族や周りに対する感謝からもう一度立ち直ることができたのだと彼女の現地調査の経験から貴重なコメントをいただいた。人は本当に絶望に直面しないと真実は見えてこない。多くの哲学者や宗教者が人間の苦悩や絶望に向き合ってきた所以はここにあるのではないだろうか?

エリクソンは「Identity Youth and Crisis」の中で、「And it may be a good thing that the word “crisis” no longer connotes impending catastrophe, which at one time seemed to be an obstacle to the understanding of the term. It is now being accepted as designating a necessary turning point, a crucial moment, when development must move one way or another, marshaling resources of growth, recovery, and further differentiation.」と述べている。アイデンティティの危機とは本当にアイデンティティを発見していく際の必要不可欠の転換点や決定的瞬間を指すのである。

人は危機を通じて、破壊を通じて逆説的に新たな世界への扉が開けていくのかもしれない。上記でアイデンティティを発見していくと記述したのは、V・E・フランクルが著書の中で、「けれども、私の考えでは、われわれの実存の意味はわれわれ自身によって作り出される(発明される)ものではなく、むしろ見つけられる(発見される)ものなのです。」(V・E・フランクル「意味による癒し」より引用)と述べたことから発見という言葉を使わせていただいた。フランクルが意味は発見されるといったように、アイデンティティも発見されるものなのではないだろうか?アイデンティティは単なる自己実現の延長線上で獲得されるものではなく、全てが破壊され、絶望に直面する中であっても自分が愛する家族のために、友人のために、あるいは神のためにもう一度心を開き、そして彼らを信頼するがゆえに、あらゆる環境に左右されない人間の尊厳として発見されるものではないでしょうか?

今回開講したクラスは少し形を変えて、来年度からは「医学哲学講義」という形でクラスを開講できたらと考えております。人の病の実存的な側面を共に学んでみませんか?私自身医学部を卒業し、一通り医学知識を身につけましたが、現代の医学では病態生理の理解は進んだものの、当の患者さんそのものの理解はどこかに取り残されたままです。人が本当に癒され救われていくプロセスとは何でしょうか?私たちはデカルトの心身二元論的世界観の構築以降、科学技術は急速に進歩しましたし、今後デジタルテクノロジーの急速な進歩の中で、人間の直観的な技能あるいは実存的な深まりはさらに軽薄になる可能性もあります。私は現代の医学を学んだ上でも、なおもう一度「ひとそのもの」「いのちそのもの」に向き合わねばいけないという使命を感じております。どうかクラスの中で一人一人の大切ないのちに自分の身体そのものにゆっくりと向き合う機会になっていただけましたら幸いです。もちろん身体のこと、病気のメカニズムについて知りたい!という方も大歓迎です。よろしくお願いいたします。