山びこ通信2018年度号(2019年2月末発行)より下記の記事を転載致します。

『ことば』1年・3〜4年・5〜6年

担当 福西 亮馬

 1年生のクラスでは、俳句をしばしば取り上げました。「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」──これは寺山修司の句です。ひと目「あれ?」と思われたかもしれません。俳句とはもっと古めかしいものではないのかと。一方、「去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの」──これは高浜虚子の句です。仮に受講生が意味を取れなくても、声に出すうちに、張り詰めた空気を覚えます。それは句の格調によります。
 古典作品とは単に古いもののことではありません。読者に愛されることで一番になっていくもののことであり、その結果古くなるのです。そのような俳句を、受講生たちと同じ時代を生きる一読者として、親しみを込めながら紹介していこうと思います。
 また絵本では、読み聞かせから受講生による音読に比重を置きました。最近では、『あらしのよるに』(木村裕一/文、あべ弘士/絵、講談社)シリーズを毎週1冊ずつ読んでいます。6冊あるうちの4冊まできました。シリーズまるごと読破を目指します。

 3~4年クラスでは、俳句、壁新聞作り、百人一首(かるた)をしました。
「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」と詠めば、安倍仲麿の望郷の思いに触れます。「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」と歌えば、持統天皇の爽やかな季節感をともにします。そして、「村雨の露もまだひぬ槇の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ」と口ずさめば、寂蓮と一緒に光に目を細めるような気持ちになります。
 うれしいことに、時々、受講生から「俳句だけじゃなくて、短歌も作っていい?」と聞かれることがあります。願ってもないことです。音楽同様、短歌もまた心を弾く表現形式です。ピアノをする知人から、「うれしい時、悲しい時、そして静かになりたい時。私には今の気持ちを表せるレパートリーが最低三つあればいい」と聞いたことがありますが、今後、忙しい世の中が反省されてくると、その価値はますます見直されるだろうと思います。

 5~6年クラスでは、『西遊記』(渡辺仙州/翻案、偕成社)を読んでいます。全3巻の上巻が終わります。読み終えた章ごとに要約を書いています。それは「あの時こういう気持ちで読んでいた」という付箋になります。
 ところで、科学者の中谷宇吉郎は、『西遊記』が少年時代の愛読書だったそうです。『簪を挿した蛇』というエッセイには、科学の紙芝居案に『西遊記』を推したと書いています。というのも、「余り早くから海坊主や河童を退治してしまうことは、本当の意味での科学教育を阻害するのではないか」と心配したからでした。中谷宇吉郎を教えた寺田寅彦にも同じ音色を感じます。そのエッセイ『ルクレチウスと科学』では、「ルクレチウスの書によってわれわれの学ぶべきものは、その中の具体的事象の知識でもなくまたその論理でもなく、ただその中に貫流する科学的精神である」と書いています。ルクレチウスは二千年前に『物の本性について』を書いたローマ人です。寺田寅彦は、科学の最先端とは関係のなさそうな古典をワクワクしながら読む体験が、科学者の想像力の翼を涵養するだろうことを示唆しています。
 釈迦の手のひらを觔斗雲(きんとうん)が飛び回るなんて、本当にはありえないことです。しかしそれでも私たちは不思議とふしぎがりません。なぜでしょうか。その問いには一生答が出ないかもしれません。けれども、よりよい方へと私たちを導いてくれるような気がします。その願いが『西遊記』をテキストに選んだ理由です。

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