ひきつづき、『荘子』逍遙遊篇を読んでいます。

『荘子』はたいへん古い書物です。歴代の学者によって数々の注釈が作られ、また日本にも多くの研究者による翻訳がありますが、それでもなお、はっきりと「これが正解」とは決められないような難しい表現がいくつも出てきます。

今回もそういった表現があり、どう解釈すべきなのか、しばらく3人で悩みました。簡単にご紹介します。

今回、次のような一文に読み当たりました。

庖人 庖を治めずと雖も,尸祝は樽俎を越えて之に代はらず。(庖人雖不治庖,尸祝不越樽俎而代之矣。)

「庖」は調理場、「庖人」は料理人のことで、前の句は「料理人が調理場の仕事を放棄したとしても…」といった意味です。「尸祝」は神主さんのようなもの、「樽俎」は酒樽と肉を盛る器です。後の句は「神主は樽俎を越えて料理人の代わりに調理場に立ったりはしない」の意味になります。

ここで、「樽俎を越えて」の解釈が問題になりました。「樽俎」が庖人と尸祝のいずれに所属するものかによって、意味が変わってくるのです。

まず、「樽俎は先祖をお祭りする際に、お供えものを入れる器」と考えると、これは尸祝の仕事を象徴するものということになりますので、「神主は自分の職分を越えて…(人様の仕事に手出しをしない)」と解釈できます(「越」は「越権」の越を思い出してください)。

もうひとつ、「樽俎は料理を盛りつける器、つまり料理人に関わるもの」と考えることも可能です。その場合、「越」は「奪」、うばうの意味として、「神主は人様の仕事道具を横取りして…」と読めます。これは、日本の福永訳、金谷訳に載っていた解釈です。

いずれも「他人の仕事には手を出さない」ということが主眼で、「尸祝不越樽俎而代之矣」を「尸祝不代之矣」としても意味は大きくは変わりません。また、冒頭にも書いたように、本来、答えをどちらかに決めるのは難しいことです。このような場合、これまでは別解を紹介するにとどめることが多かったのですが、今回は敢えて3人のなかでの正解というものを決めてみたいと思いました。

しばらく、こうだろうか、ああだろうかとそれぞれに意見を出し合ったあと、Iさんが「もし樽俎が料理人に属するものだとすると、尸祝に当たる部分には、ほかのどんな職業が入っても構わないということになりますね」とおっしゃいました。なるほど、大工さんでも、警察官でも、誰でもよくなってしまいます。樽俎を「お供えものの器」と考えてこそ、尸祝が活きてくるというわけです。

すると、今度はKさんが「(成玄英の)疏を見ると、樽俎は尸祝のものと考えた方が良さそうです」と、Iさんの意見に賛成されました。こうして意見がまとまり、一件落着となりました。

いつもより時間をかけたことで、お2人ともとてもおもしろい意見を捻り出してくれました。今後も同じような問題があれば、またじっくり考えてみたいと思います。

木村

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