『フランス語講読』(A・B) クラス便り(2016年2月)

「山びこ通信」2015年度冬学期号より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』(A・B) 

担当 渡辺 洋平

 Aのクラスは、昨年6月から読み始めたル・クレジオの『アフリカのひと L’africain』を読み終えました。ポケット版で120頁ほどの小著で1頁あたりの単語数も少ないとはいえ、一回二コマの授業で毎回7〜8頁ずつ読み進めることができ、8ヶ月ほどでの読了となります。舞台がアフリカということもあり見慣れない単語も出てきますが、全体的には読みやすい部類に入ると思います。フランス語の文法を一通り終えた人にもお勧めです。
戦争によって父と離れて育ったル・クレジオは、8歳の時にアフリカで父とともに暮らし始めます。しかし、そこで出会った父は、ル・クレジオがフランスで見知っていた人たちとは根本的に違っていました。気難しく、厳格で、さまざまな規則を作って生活を律し、衛生に異常なまでに気を使うが、アフリカ人に対しては優しい。ル・クレジオはそんな父を、戦争前に父が母とすごした幸福な時代と対比することでより鮮明に描いています。若く、冒険心と愛情に満ちた若者だった父が、権威的で怒りっぽく、また厭世的で孤独な人間になってしまうさまを、戦前と戦後を対比させることで浮かび上がらせているのです。とはいえ、あたかも伝記であるかのようなこのエッセイも小説家ル・クレジオが描いた世界であり、一見ルポルタージュのようでありながら、手元に残っている写真や生前に聞いた話、ル・クレジオが受けたそのときどきの印象から作りだされたものであることも忘れてはならないでしょう。『アフリカのひと』においては、事実とフィクションが互いに混ざり合い、ひとつの世界を作りだしています。自伝的エッセイのようでありつつも、それにとどまらない拡がりと感動を伝えてくるのは、やはり文学者のなせるわざではないでしょうか。
今後は、ジャン=ポール・サルトルの文学論集『シチュアシオン』から、アルベール・カミュの『異邦人』についての文章を読む予定です。

Bのクラスは、引き続きデカルトの『方法序説』を丹念に読み進めています。とはいえ最終部である第6部に入り、終わりもみえてきました。春学期での読了を目標に、しかし焦ることなく読み進めていきたいと思います。
内容的には、心臓についての記述から、動物精気の話、人間と動物の違いについてなど、やや込み入った話が多くでてきました。動物精気(esprits animaux)とは、非常に微細な血液のようなものであり、例えば腕を上げようと思うと腕が上がるのは、この動物精気が腕に流れるからだとデカルトは考えています。したがって、動物精気は精神と身体を結ぶ媒介の役割を果たします。しかしこの動物精気や精神と身体の結合の問題は、その説明の曖昧さからデカルトの弱点とも言われます。精神がいかにして身体に働きかけ、また身体からの影響を受けるのか。これはデカルト以降、西洋哲学の大問題となるものです。
もうひとつの人間と動物の違いに関しては、デカルトは人間と動物の違いを、言語を用いることができるかどうか、多種多様な状況に対応できるかどうか、というふたつの基準に求めています。動物でも、たとえばオウムは音声を発することができるし、蜂は人間にはできないような幾何学的な巣を正確に作ります。しかし、動物は人間のように言葉を組み合わせて話をしたり、ひとつの技術を他のことに応用したりということができません。デカルトはこの違いを、理性を持っているかどうかの違いであると考えます。デカルトにしたがうならば、人間は理性を持っているからこそ互いにコミュニケーションをとることができるのであり、状況に応じて振る舞いを変えることができるのです。しかし逆に言えば、デカルトにとっては人間だけが理性すなわち精神を持ち、動物は機械と同じものにすぎません。昨年はソフトバンク社から話すロボット、ペッパーが発売され話題となりましたが、現在の人工知能やコンピューターの発達はデカルト的な人間と動物、人間と機械という区別を乗り越えることができるのでしょうか。これはまだ分かりませんが、ロボットが人間と同じように会話をし、状況に応じた対応ができるようになったなら、今度は人間とは何かという問いに対し、デカルトとは異なる答えが求められることになるでしょう。