ことば1~2年A(11/25)(その2)

福西です。
後半は、『ケニーのまど』(センダック/作、神宮輝夫/訳、冨山房)を読みました。この日、この本を了読しました。

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この作品は、ケニーという少年が、夢の途中で目覚め、そこに出てきた四本足のニワトリから、「7つのなぞなぞに答えられたら願いごとをかなえてあげる」と言われるところから始まります。

この日読んだ箇所は、いよいよそのなぞに対し、ケニーが一つずつ答を言っていくシーンです。そこにはある種のカタルシスがあります。

ただ、この物語の第一感は、「わかるような、わからないような」お話だったのではないかと思います。しかしながらむしろ、「はっきりわかった!」と言われるよりは、その方が今の読後感であってほしいとも思います。

このお話自体が、夢なのか、現実なのか、それとも途中からがそうなのか、実に「あいまい」にしてあるところが、この物語の尽くせぬ魅力だと思います。

「もしまたこの本に出会うことがあったら、今、この本の中で夢だと感じていた部分がむしろ本当で、本当だと思っていた部分が夢だと思うかもしれない。そんなふうに感じ方が入れ替わるかもしれない」

と、私からは、わかるようなわからないような(^^;)コメントをしました。

そう言うと、A君が、きっとフォローしてくれたつもりだったのでしょう。「最初のところは本当だよ」と強く言ってくれました。

冒頭で、朝、ケニーがベッドの上でなぞなぞの紙を広げ、「さっき見た夢のことについて考えている」シーンです。なるほど、言われてみれば、確かにそうですよね。物語では、その朝の時間は、夢とはっきり線引きして描かれていることになります。

「考えている自分は、現実だ」というわけです。

ただ、そこでふと、私が不思議に思うことがあります。その「目覚めた」はずの時間と地続きに、普通に、くまのぬいぐるみがケニーにしゃべりかけてきたり、屋根の上に馬がいたり、鉛の兵隊が愚痴を言ったりして、お話が展開していくところです。はたして、そのような時間は、現実と夢と、どちらなのかなと。(それとも、どちら「も」かもしれない、とか)。

しかし、二重に出来事が起こり展開する方が、むしろ、「よくあること」なのかもしれません。

ところで、このクラスに、兄弟で通ってくれている生徒のE君とA君は、どちらも絵が好きです。とにかく、暇さえあれば、絵を描きはじめています。そのような彼らにとって、「絵を描いている」時間というものは、はたしてどのように体験されているのかなと思うことがあります。

おそらく「絵」の内面では、きっと外から眺めるのでは味わうことのできない、リアリティに富んだ時間が流れているのでしょう。

そのような問いが、このクラスでこの本を一度読んでおきたいと考えたきっかけでもありました。

 

本の冒頭に戻りますが、「ゆめのとちゅうでめがさめました」とあります。はたして、この「ゆめのとちゅう」とは、どのあたりのことなのでしょうか。

また、今日読んだ箇所で、ケニーは、「願ったもの」に至る道のりをすでに遠くまで自分が来てしまっていることを、ニワトリから喚起され、「どうして?」と尋ねるシーンがあります。その「問い」に対する答にも、「とちゅう」という言葉が繰り返されています。それは、以下のニワトリの言葉です:

「ねがいごとを したからさ。

 ねがいごとは、いきたいところへ とちゅうまで いったのと おなじなんだ」

これ自体が、一つの答ではありながら、まるで読者に新しい「なぞ」をかけているようではありませんか。

この言葉の印象は、ひとたび本を置き、物語の外に出てしまうと、「うまく騙された」ようにも感じられます。けれども、この本を読んで物語の中にいた「ちょうどその時」には、強い説得力をもって語りかけてくるを覚えます。それはどうしてかと問われれば、きっと、作者センダックの人生をそのまま映し込んだ言葉だからなのでしょう。

作者自身が、ケニーという、もう一人の自分(あるいは読者)からの「どうして?」という問いに対して、真摯に考え出した答。それが、上のニワトリの言葉であり、それはまた、「心の中の真実」に強い信頼を寄せる(またそこから慰めを得ることで強く生きてきた)作者からの、若い読者たちへの励ましであるような気がしてくるのです。

 

秋学期はこれでおしまいです。冬学期は、『火よう日のごちそうはひきがえる』(エリクソン/作、佐藤涼子/訳、評論社)を読んでいきます。続きが気になってワクワクすること、請け合いです。ぜひお楽しみに。