高校・数学クラスのエッセイです。(『山びこ通信』(2004.10)より転載)

『道具力』──あるいはすっぱいぶどうの経験──

「ぼくの日本における最大の夢は、日本に数学コンテストを根付かせること」とは、数学者ピーター・フランクルの言葉です。私がその人物のことや、数学オリンピックのことを知ったのは、まさにA 君を通じてでした。

A 君は「数の世界」に来ている高校1年生ですが、学校のクラブで、友達と数学オリンピックの問題を解き合っているのだそうです。そこで、私も遅ればせながら、授業でその問題と付き合ってみようと考えたのでした。

それまでの私は数学オリンピックと聞くと、お恥ずかしい話ですが、高校時代の偏見をそのまま引きずっていました。今だから懺悔を込めて告白すると、当時は数学の授業についていくのが精一杯だった私は、いつもこう言って(避けて)いたのでした。

「そんなもの、解けたからって…」

と。だからどうなるんだと言いたいわけですが、しかしこれは、ぶどうに届かないから「あれはすっぱいんだ」と言う、きつねにそっくりな話なのでした。

さて、私たちが実際にクラスで扱っているのは、本式の国際数学オリンピックの方ではなくて、日本の予選の問題です。それでも、1問解けると「万歳」が出てしまいます。自分のひらめいたアイデアで解けると、本当に嬉しいです。そして「ある力」が試されるなあと、つくづく思います。

私はこれを『道具力』と呼びたいと思います。ちょっと定義しておきますと、

「道具力とは、補題を作り出せる力のことである」
(ここで補題とは、定理を証明するために準備する別の定理のこと)

手順としては、まず問題の姿かたちから、何かをひらめきます。そのひらめいた事柄を、「確かだ」とするのが、補題です。それを鍵にして、定理を証明するのですが、補題さえでき上がってしまえば、あとは応用するだけなので、「勝ったも同然」です。逆に、補題なしでは、竹を手で切るような、手計算をするはめになります。

数学オリンピックでは、本式であれば、「9時間で6問」という、かなりたっぷり目の枠が用意されていますが、それは、計算のためではなくて、計算をしないですむ補題を作るためにあります。

その補題に、もちろん過去の数学者が作った定理を利用することも考えられます。それもアリです。ただ、それを知っていようといまいと、どのみち自分の頭から似たものを作り出せるので一緒だ、と思える、ここが大きな差となるポイントです。もし自分で一から作り出す自信がなければ、たまたま道具があったから解けたにすぎません。ないなら調達して(その中には自作も含まれる)

困難を克服することは、普遍的な力での勝負なのです。それはまた真に将来の未解決な問題を解くための練習にもなります。

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これは私の幼稚園時代のつたない話ですが、「似顔絵」というものは、肌色の絵の具がなければ描けないのだと、強く思い込んでいました。

ある日、「どうしたの?」と、先生がやってきて、パレットの上に橙と白を混ぜ、知っているあの肌色が、みるみると浮かんでくることに感動を覚えました。私はこの「混色の原理」を自分の物にしたくて、「どうして肌色になるのか」としつこく聞いて回った覚えがあります。質問された側は、どうしてと言われてもそうなるのだから、と思ったことでしょう。

今あの時の私が聞きたかったことを翻訳すると、その疑問は、肌色に限らず、「どんな色でも、同じようにしたら作り出せるのか」ということだったのです。たとえば茶色は、幼稚園児にとっては絵の具箱にある、おなじみの色ですが、もしなくても、橙と黒から作り出すことができます。またそれを知らなくても、「混ぜれば何とかなる」ことを知っていれば、試行錯誤するうちに、その組み合わせに気付くでしょう。私は実際、その「組み合わせ」に夢中になる物を感じました。

これまで肌色やそれに類する色がなければ描けなかった世界が、ぐんと広がりました。桃色や黄土色は、「絵の具箱」になくても、いつでも今ある色からひねり出して、それを友達に教えることができました。そうすることで、それまでの苦手だったお絵かきの世界から、悠々自適のそれへと一歩抜け出せたのでした。

同様に、私は知らないことが知識の真の限界ではないことを、痛切に感じます。反対に、「知らないから解けない」で止まってしまっていた自分が、少しずつ脱皮していくことは、苦しくもあり楽しくもあります。道具があることを知らないからではなく、作り出せないから、その意味で解けないのだとするならば、諦めなくてもいい。こつこつと道具を工夫して、少しずつ自在になれるのならば、自分の思うように行かないことでも、そのうちに許容範囲として見られる。

「知っていれば使う、なければ作る」この単純な行為の組み合わせで、問題を解決することは、何も数学に限った話ではありません。

複雑な道具が現在の世の中を支える一方で、その道具自体を作る基礎力が次の世代、また次の世代へと受け継がれていかないと、世の中はどんなに努力しても、縮小再生産の道をたどることになりかねません。

そのことを杞憂に吹き飛ばすために、教育はますます盛んになるべしです。作り出された道具を、次の世代にもたらすだけではなく、作り出す力を育てる点でも。

(福西亮馬)

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