漢文クラス(2011/11/7)

今回で『説苑』を読み終え、蘇軾「魏武帝論」に入りました。
『説苑』は全部で10ページ分ですから、2ヶ月という期間にしてはたくさん読めました。

今回から読み始めた「魏武帝論」ですが、一段落目は一人の名前も出てこない、抽象的な文章でした。
『説苑』のような説話と違い、ストーリーがあるわけではないので、受講生のお二人も読みにくいと感じられたようです。
『説苑』は、文脈から単語、文字の意味を類推して読むことが出来ましたが、この「魏武帝論」の場合は、一字一句から文、文章の意味を組み立てていかないといけないので、これまでよりも読むのは大変でしょう。
それに加え、接続詞の使い方がやや曖昧で、前後の文の関係が分かりにくいところもあります。

さて、「魏武帝論」の第二段落には、中国の古典のなかから3つのエピソードが、「危道」(リスクの高い方法)を選んで成功した人の例として挙げられています。
なかなか調べにくいものもありますので、ここで簡単にご紹介します。

1.「晋の荀息は虢(「虞」の誤り)公の必ずや宮之奇を用いること能わざるを知る」(『春秋左氏伝』僖公二年ほか)。
荀息は晋の献公(文公重耳の父)に仕える謀臣。晋国が虞国に道を借りて、その向こう側の虢国を伐とうとした際、荀息は献公の宝である屈産の名馬と垂棘の璧(装飾品)を贈りものにして、虞公を手なずけることを提案した。晋には、虢を滅ぼしたら次は虞を、という企みがあったので、名馬や璧を贈ることは「しばらく外府(国外の倉庫)に置いておくようなものですよ」と荀息。
しかし、献公が心配なのは虞の賢臣・宮之奇。どうしたらいいのじゃと荀息に尋ねると、「宮之奇は気弱な性格で強くは言えませんし、しかも虞公とは気心が知れていて、かえって諫言を聞いてはもらえないでしょう」と答えました。
果たして、宮之奇のたびたびの諫めは聞き入れられず、虞公は晋の軍隊に道を貸します。
晋が何度か出征した後、ついに虢は滅ぼされます。そしてその帰り道、返す刀で虞を攻め取ってしまいました。
もともと虢と虞の二国は隣国同士で、車の両輪のような関係、どちらかが転べばもう一方も運命を共にするしかないのですが、虞公は親戚の国である晋が攻めてくるはずがないと高を括っていたのでした。

2.「斉の鮑叔は魯君の必ずや施伯を用いること能わざるを知る」(『国語』斉語)。
鮑叔は、「管鮑の交わり」で知られる人物で、春秋五霸の筆頭・斉の桓公に仕えました。
お家騒動に巻き込まれないよう国外にいた桓公が帰国し、即位したばかりの頃、それまでよく自分を補佐してくれた鮑叔を宰相に就けようとしますが、鮑叔は「ぜひとも管仲でなくてはなりません」と固辞します。
管仲は「管鮑」の「管」の方、つまり鮑叔の大親友ですが、先のお家騒動では桓公の対抗馬・公子糾に味方し、ジェームス・ボンドよろしく、遠くから弓矢で桓公の命を狙ったこともありました(矢がベルトの金具に当たったので、桓公はなんとか命拾い)。そんな男を宰相に?どう考えても危険です。どうしてそんなことになったのか。話は遡って…。
糾の母は魯の出身だったため、魯君こと魯の荘公は糾を擁立しようとして、空位状態の斉にこれを立てるよう迫りますが、一足先に桓公が帰国し、さっさと国君の座に即いてしまった、という経緯がありました。
もちろん魯としては面白くありません。こうして両国は、乾時の地にて矛(ほこ)を交えますが、このときは斉が勝利を収めます。
そして冒頭の戦後処理の話になりました。功労者・鮑叔の薦める管仲は天下の才とは耳にしたことがある。桓公は管仲を宰相に就けることで合意しますが、肝心の管仲は魯の国にいます。
「どうやって管仲を生きたまま斉に連れ戻すか」。これは難題です。魯には謀臣・施伯がおり、宰相にしようとしていることに気付いて、管仲を殺してしまうのではと心配します。魯にしてみれば鬼(斉)に金棒(管仲)だからです。
そこで鮑叔は一計を案じてから、魯に使いを出しました。
さて、魯では、荘公が管仲の返還について施伯に意見を求めます。施伯は斉の算段を見抜き、「管仲は天下の才、彼が斉に帰れば、我が魯国は長く憂うことになるでしょう」と答えます。しかし、鮑叔の使いが「管仲は吾が君のお命を狙った極悪人、こやつばかりはこちらで直々に手を下したい。身柄を引き渡していただこう」と言うと、荘公はこれを許してしまいました。施伯の言は用いられなかったわけです。
その後、斉に帰った管仲は、恨みを忘れて自分に機会を与えてくれた桓公の下、その才能を十二分に発揮します。こうして、斉はみるみるうちに強国となり、次第に諸侯からの信頼を得て、ついには覇者となることができたのでした。

3.「薛公は黥布の必ずや上策に出でざるを知る」(『史記』黥布列傳)
漢の高祖(劉邦)が宿敵・項羽を破り、天下はそれまでの戦乱から解放され、平穏を取り戻します。しかし、「狡兎死して良狗烹(に)らる」のたとえのように、戦争が終われば軍人に活躍の場はなくなり、かえって疎ましくさえ思われるようになります。
そうして、軍功の大きかった韓信や彭越といった武将たちは、初めこそ相応の褒賞を得て国王(とはいえ、皇帝にとっては臣下です)の座に即きますが、彼らの反乱を懼れた高祖は、それらの国を次々に取り潰しにしていきます。
かつて手柄を争った韓信、彭越が殺され、さあ次は俺の番かと思ったのは猛将・黥布。彼はもともと項羽の右腕でしたが、のちに嫌気が差して漢に寝返った、という過去があります。そもそも猜疑心の強い高祖、そんな黥布の忠誠を信じられません。
黥布の方とて、そのことは百も承知。「ええいままよ、どうせ滅ぼされるのを待つくらいなら、こっちから独立してやるわい」と反乱を起こします。「劉邦はもう老いぼれ、自分で出てくることはできまい。韓信、彭越も今はなし、俺に敵うやつはおらんわい」。
高祖は「やっぱり」と思う反面、相手は猛将、「どうしよう」。そこに、滕公という人物の紹介で、薛公が現れます。
薛公が言うには、「黥布が採るべき道は上・中・下の三つ。布が上計に出れば、漢は山東を失うでしょう。中計に出れば五分五分、下計に出れば、陛下は枕を高くしてお休みになれます」と。
高祖は上計、中計、下計がそれぞれどのようなものかを尋ねた後、「では、黥布めはいずれの計を採るのか」と問います。薛公曰く、「下計に出でん」と。
「そもそも黥布というのは、一介の罪人から国王にまで成り上がった男です。なにをするにも行き当たりばったり、後世のこと、万民のことを考えてなどおらぬのです」。これを聞いた高祖、「よし!」。
果たして黥布は薛公の言ったとおりの下計に出ますが、そうは言っても当代随一の猛将です。高祖は老体に鞭打って自ら出馬、黥布の陣が項羽のものにそっくりなのを望み見てはイライラ。互いに罵り合いながら、なんとかこれを成敗できました。

以上、「危道」の三例を見てきました。いずれも賢臣・謀臣の推測に過ぎず、希望的観測とも言えるものです。結果として的中したから良かったものの、100パーセントの確実性を具えたものではありません。それゆえ、「危道」と呼ばれるわけですが、これらを例にとって、蘇軾は「危道」を冒しても成功に至る所以としての「以人権之」(相手を見て判断する)ことの重要性を説明しています(こう読んでみると、この下の「是故可以冒害而就利」までを第一段落とした方が良いように思えます)。

さて、次回はKさんがお休みだそうです。Iさん、お一人で大変ですが、がんばってください!

木村亮太