今回から『説苑』復恩篇を読み始めました。
『説苑』という書物では、各篇の首章がその篇の総論的な役割を果たしています。ここで説かれていたのは、「恩を施した者はそれで得意になってはならないし、恩を受けた側は必ず報いなくてはならない」ということでした。このことをテーマにした説話が、復恩篇では紹介されていくわけです。
この章は、『説苑』という「ものがたり集」にあっては、ちょっと異色な部分であり、多少の読みにくさは感じておられたようですが、受講生のお二人はよく理解しておられるようでした。

さて、本文を読む以外にも、授業中に説明したい事柄があったのですが、気が付けばあっという間に下校の時刻になってしまっていました。
『説苑』に収録された説話は、いわゆる「春秋戦国時代」のものが多く、当時の歴史的な背景を知っておいた方が理解には便利です。そこで、次回から読み進めるつもりの説話の背景を、この場を借りて少しご紹介したいと思います。

「趙襄子見囲於晋陽」の章は、春秋時代(BC.722-BC.481)と戦国時代(BC.403-BC.222)のちょうど中間にあたる時期が舞台です。
春秋時代の超大国である晋には、大臣を世襲する六つの強力な氏族があり、あわせて「六卿」と呼ばれていました。彼らは、徐々に、晋侯(晋の殿様)をも凌ぐほどの勢力をたくわえ、春秋末期には国政をほしいままにしていました。
六卿のうち、特に有力だったのは知氏で、やや弱小の韓氏、魏氏、そして趙氏を従えて、ライバルの范氏、中行氏を攻め滅ぼしてしまいました。ところが、それからしばらくの後、知氏の命令に従わなかった趙氏は、知・韓・魏の三氏の軍勢によって晋陽城に包囲されてしまいます。
趙氏とその家来たちは籠城してよく戦いますが、知氏らはこれを水攻めにします。今にも城壁を越えようかというところまで、水が迫ってきました。趙氏は絶体絶命。家来たちにも動揺が走ります(ここでいう「家来」とは、晋侯の家来である趙襄子の、そのまた家来、いわゆる「陪臣」のことです)。
この情況を打開したのは、家来の一人・張孟談です(彼は『史記』には「張孟同」として登場します)。孟談は城を抜け出すと、韓、魏両氏に相談を持ちかけました。
「このまま知氏の言いなりになっていても、いずれは趙氏と同じ運命ですよ。それよりも、ここは私たちを助けて、韓・魏・趙の三氏で知氏を倒してしまいませんか」。
韓氏と魏氏は「なるほど」とこの提案を受け容れ、趙氏に味方をして知氏を打倒します。こうして、大国・晋の領土は韓・魏・趙の三国に分割され、のちにそれぞれ「戦国の七雄」に数えられるほどの強国へと成長していくことになります。
さて、韓・魏との内通工作を見事に成功させた張孟談ら五人の家来たち、我こそは一番手柄と意気込みますが、趙襄子が上賞を与えたのは、なぜか高赫という別の家来。これはどうしたことかと、孟談は怒ります。襄子の答えはいかに?

「晋文公亡時」の章も、上述の晋が生んだ名君・文公が即位したころの話です。
公子重耳(のちの晋の文公)は、晋の献公の庶子として生まれました。献公には既に太子申生という立派な跡取りがいましたが、今は若く美しい側室・驪姫(りき)の魅力に骨抜きにされています。
「私たちの子を跡継ぎにして」と驪姫にささやかれては、ノーとは言えない献公です。
かくして、晋に跡目争いが勃発します。本来の跡継ぎである申生は、無実の罪で自刃を命じられ、重耳と、もう一人の弟・公子夷吾は、それぞれに腹心の部下だけを連れて出奔します。国外に難を逃れようというわけです。
献公の死後、驪姫は幼い自分の子や甥に侯位を継がせようとしましたが、その企みはいずれも反対派の大臣たちの手によって阻止されました。
出奔中の二公子のもとには帰国を促す知らせが届きますが、まず戻ったのは夷吾の方でした。これが晋の恵公です。
一方、重耳とその一行は、中国各地を放浪しながら、立ち寄った国々の領主たちからの信頼を得ていきます。恵公の亡き後、満を持しての帰国となった重耳は、このときなんと62歳、出奔からは19年の歳月が過ぎていました。
こうして即位した重耳(文公)、寄る年波もなんのその、「覇者」として中国全土に名をとどろかせます。超大国・晋の礎は、ここに第一歩を踏み出したのです。
さて、この放浪の旅に付き従った家来たち、ついに自分の見込んだ若君の世が訪れたとなれば、出世や褒美に対しての期待は、否が応でも高まります。
今回の説話の主人公・陶叔狐もそんな一人ですが、どうして俺にだけ褒美の沙汰がないのかと、そわそわ。ついには、重耳の側近である咎犯に直談判に訪れますが…。

木村

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