教育の話が続きます。

どうしても暗い話題になってしまうことをお許しください。

「勉強」の反意語は何かと尋ねられて「遊び」と答える人が多い世の中です。

勉強をスタディーととらえるなら、その反意語は「無気力」にあたるアパシーになります。

いきなりなんの話か?ということですが、幼稚園児から大学生までを見ていて思うことは、「勉強か遊びか」でものを判断してはいけないということです。

小学校以上の勉強を自由自在に満喫する生徒は、自分で手間暇かけて自分の学びのカスタマイズをほどこし、楽しく(充実して)学ぶ工夫をこらしています。

けっして「やれ」といわれて学ぶのではありません。

同様に幼稚園児も、「遊びなさい」といわれて遊ぶ子は一人もいません。

私がよく「遊ぶように学べ」という根拠はここにあります。

幼稚園児の没入姿勢こそ、小学生以上の生徒や学生が手本とすべきものです。

寝食を忘れて研究に没入する大学の研究者も同様です。

英語のstudentとは元の語源に照らすなら、「情熱を傾けて対象に打ち込む人」の意味です。

年齢は関係ありません。

ラテン語で「学校」をludusといいますが、ludusの本来の意味は「遊び」です。

schoolの語源はギリシャ語で「ひま、閑暇」を意味します。

日本語で「遊び」、「ひま、閑暇」が学校教育との関連ではたしてポジティブな意味をもちうるのか、どうか、気になります。

本を読んでいて次の言葉に出会いました。

人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。好きにならぬのがむしろ不思議です。好きでやるのじゃない、ただ試験目当てに勉強するというような仕方は、人本来の道じゃないから、むしろそのほうがむつかしい。 (小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮文庫より)

以下自著に書いたコメント文を引用します。

勉強と言うと試験のために無理をして取り組まないといけないニュアンスがありますが、本当の学び(学問)は面白くてやめられないものだ。そのような趣旨のことを数学者岡潔氏は小林秀雄との対談で述べています。注目すべきは、「好き」の前に「行動」がある、という指摘です。普通は、「好き」だから「行動」するのだと考え、子どもに対して「好きなことをしたらいいんだよ」というメッセージを伝えたりします。これは物わかりのよい大人の言葉に聞こえますが、結果的に子どもの行動をせばめることになります。

子どもは「好きだからやる」という発想をしません。面白そうだからまずやってみる。その結果、面白くなければやらない。子どもの行動はこの連続です。森の中に連れていくと、手あたり次第、いろいろなことに手を出し、様々なことに挑戦するのが子どもです。そして、本当に面白いと思ったことは時間を忘れて没入する。そして結果的に自分の「好き」なことを見つけていくのです。

一人遊び、複数遊びは問いません。自分(たち)でルールを決め、自分(たち)でそれを守り、行動に移す。その結果を踏まえ、もっと面白い遊び方はないか、自問自答し(相談し)ルールを変えながら、別の遊びを作り出す。子どもの遊びとは、こうした全身全霊を使った試行錯誤のプロセスであり、それを通じて人生を能動的に生きる基本的態度を養っていくのです。

人生は試行錯誤の連続です。それを面倒だと思えば、他人の指示に従う方が楽であり、学校の勉強では「正解」と「解法」を事前公開してくれるので、試行錯誤は「無駄」の極みです(黙って覚えればよい)。

しかし、無駄は無駄ではありません。それが「遊びごころ」というものです。

この姿勢を失ってしまうと「かぼそいゴム紐」に化していくのです(2日前の記事参照)。

ワーズワースの「虹」を引用しつつ、司馬遼太郎は次のように述べています。

「私の中の小学生が、物や事を感じさせてきて、私の中のオトナが、それを論理化し、修辞を加えてきたにすぎないのかと思ったりします。もっとも心にコドモがいなくなっているオトナがいますが、それは話にも値しない人間のヒモノですね」と。(『こどもはオトナの父―司馬遼太郎の心の手紙』、神山育子著、朝日出版社)。

「コドモ=好奇心(驚く心)=遊びごころ」ととらえれば、「ヒモノ=かぼそいゴム紐」と導けるでしょう。

幼児教育は「コドモ」の「三つ子の魂」を百まで守るためのお手伝いをするものだと私は理解しています。

そして、このお手伝いを日本全国力を合わせて行わないかぎり、国の未来は暗いものになる(すでになっている)というのが昨日の話の結論でした。

あとは家庭ごとにレジストするほかないでしょう。

私は山の学校の活動もふくめ、どこまでコドモの遊びごころ(=学びの心と言い換えてもよい)を守り抜く決意です。

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