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「三つ子の魂」の行方──幼児教育と学校教育をめぐって

山びこ通信2018年度春学期号(2018.02.28発行)より、巻頭文をご紹介します。

「三つ子の魂」の行方−−幼児教育と学校教育をめぐって

山の学校代表 山下太郎

 英語で「子ども」をインファント(infant)と言いますが、原義に照らすと「言葉を話せない者」という意味になります。赤ちゃんもそうですが、言葉を自由に操れない小さな子どもたちは、大人に何かを訴えるとき、言葉より行動や態度で──泣いたりすねたり怒ったりして──様々なメッセージを送ります。発する言葉も字句通りに受け取れないケースが多々あります(「きらい」は「すき」の意味であったり)。周囲の大人が、そうした「声なき声」も含めた子どもの「心の声」に日頃から注意深く耳を傾け、彼らの「心そのもの」を理解しようと努めるかぎり、子どもたちは安心して自分の思いや考えを「言葉」に託して他者に伝えるようになります。

 この「安心」を子どもたちが幼児期に日常的に実感できるかどうか。これは子どもたち一人一人の人生にとっても、また子どもたちを受け入れる社会にとっても、大きな意味を持ちます。子ども同士の言葉のやり取りは、大人から見れば不完全で、しばしば誤解や争いに発展します。相互理解のためには、ときには大人が間に入ってそれぞれの「心の声」を「通訳」して双方に──ときには保護者に──伝える必要もあります。「過保護」でもなく「放置」でもなく、程よい頃合いを見計らって、程よい言葉を足したり引いたり、なぐさめたり、励ましたり。幼稚園の先生の仕事の一つは、そうした子どもたちの心を理解し、「通訳」をすることだと思います。

 幼少期に限らず、自分の思いや考えを心から共感してくれる大人に囲まれて育つかどうかは、小学校以上の学校教育においても、大きな意味を持つと考えられます。学校教育の基本は言葉を用いて行われます。授業も、友だちとの会話も、様々なクラスの活動も、言葉なしには成り立ちません。その言葉のやりとりに子どもたちが自信をもって臨むことが学びの基本ですが、その鍵を握るのが幼児教育であり、家庭での言葉のやりとりです。

 かりに大人が忙し過ぎて心に余裕がなかったり、自分の都合で物事を判断しがちな場合、大人が子どもに返す言葉の頻出語は「ダメ」と「イケマセン」になりがちです。この場合、子どもが汲み取ってほしかった「心の声」は誰にも受け止められず、封印されたままになるでしょう。それが日常的に積もり積もれば、小学校に上がっても、言葉を用いた学びの世界を肯定的にとらえ、言葉を使って積極的に社会に関わることに意義を見出しづらくなります。

「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」(『星の王子さま』(サン=テグジュペリ、内藤濯訳、岩波書店)

 「はじめは子どもだった」ことを忘れずにいる大人に囲まれた子どもは、安心して学びの道を歩むでしょう。「三つ子の魂百まで」という言葉は、大人が「三つ子の魂<を>百まで<忘れない>」という意味で理解したいと思います。その心が枯渇した大人に囲まれたとき、子どもは、「競争」と位置づけなければ「勉強」に意欲を燃やすこともありません。

 それに対し、子どもと接する大人が「三つ子の魂」──感性や探求心など──を失わない限り、子どもとの対話そのものが子どもにとって大切な学びの機会となるでしょう。子どもの「どうして?」に対して、「そんな(馬鹿な)ことを聞いて何の意味がある?」と返すか──司馬遼太郎氏は中学一年生の時、ニュー・ヨークの意味を授業中に尋ねて「地名に意味はあるか!」と叱られました──、大人が子どもと一緒に「どうしてかな?」と考えるか、その違いは大きいです。「どうして?」の言葉を守られて育った子どもは、学ぶこと自体に興味を抱き、末広がりに自らの学びの世界を広げ、深めるでしょう。

 その差は、大学に入学した場合、顕著に現れます。競争の手段とみなして勉強に取り組んだ者は、入学と同時に学びへの関心を失うため、質問することすらできません。年齢とともに知的好奇心が干上がって、大学に入ったとたんインファント(言葉を話せない者)になり果てるのでは困ります。大学とは本来、学びの魂を輝かせ、真理の探究に情熱を傾ける者(真の意味のステューデント)のみで構成される場のはずです。現状は、大学の先生にとっても、そうした真摯に学ぶ学生にとっても、あるいはインファントとなった学生にとっても、理想とは隔たりのある形です。

 もう一度子ども時代に目を向けましょう。子どもは一見無邪気に見えますが、魂の次元では大人と何も変わりません。それだけに、自分を見つめる大人の眼差しに真心があるかどうかを敏感に察知します。教育に携わる者は、人間としての己の魂の輝きがいつも試されています。大人を見つめる子どものまなざしは、大げさに言えば、その子の、そして、私たちの社会の未来を左右する畏怖すべき「試験」でもあります。

 私は、今後学校教育がよりよい方向で改革されることを期待する一人ですが、その根本には上で述べたような「幼児教育的視点」が不可欠だと考えます。万一それが学校に期待できなくても、子どもを誰より間近で応援できる親自身が、日々己の「三つ子の魂」の行方を気に掛けつつ、真心をもって子どもと接するのであれば、何の憂いもないはずです。

(山下太郎)

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