「終わり」は「始まり」――「根っこの教育」を大事にしたい

(2011年『山びこ通信』2月号巻頭文より)

文・山下太郎

この「山びこ通信」がお手元に届く頃、卒業式も間近である。「卒業」にあたる英単語は何かと思って和英辞典を引くとcommencementという言葉が見つかり、ちょっとびっくりする。commencement は、もともと「始まり」を意味する言葉だからである。一方、「卒業」の「卒」を漢和辞典で引くと「終える」という意味が見つかった。視点の相違が興味深い。

「卒業」といえばgraduationを思いつく人の方が多いだろう。語源はラテン語のgradus(グラドゥス)で、「階段、段階」を意味する(ⅰ)。つまり、階段を一歩ずつ登るイメージがgraduationという英語にはこもっている。「終わり」は「始まり」、これからも一歩一歩「学びの山道」を登っていこう!――「卒業」を意味する英単語の投げかけるメッセージはこう解釈できるかもしれない。


山道を登っていると、見晴らしのよい場所で立ち止まるのが人の常。眼下に広がる町並みを眺めるとき、あるいは遙かにそびえる山並みを仰ぐとき、清々しい気持ちになるものである。私のイメージする卒業式とは、そんな「山登りにおける小休止」といった趣をもつ。ちょっと我に返ると、今来た道と変わらない「階段(gradus)」が、相変わらず上方に続いている。私たちは、人として学び続ける限り、一生このような形で階段を登っていくのだろうか。山頂に近づくと、どんな景色が見えるのだろうか。「山の学校」は、そんな登山家に頼られるシェルパの存在でありたいと願っている(ⅱ)

ところで、どんな山にも「ふもと」の広がりがなければ「頂き」は存在しない。「学びの山」の「ふもと」とは何であるか。これを形成するのが「幼児教育」である。しかるに昨今の「幼保一体化」の議論を聞いてみても、また、OECD諸国と比べ極端に少ない公的助成に照らしても、我が国にはこの肝心の「幼児教育」を尊重する視点が希薄であると言わざるを得ない。

幼児教育の要諦は、「高い山ほどやる気が出る」という人間を育てることである(ⅲ)。この教育力が弱まれば、日本の教育全体が劣化していく。山の中腹で大学の先生が待てど暮らせど、真にやる気のある人材がそこまでたどり着かない。仕方がないので、先生たちが山道を登りやすく整地したり出迎えに行ったり、あげくはケーブルカーの設置を検討したりする。これが今の大学の姿ではないか。

しかし、これは大学教育の責任ではない。つきつめれば、幼児期の教育の欠落が問題なのである。幼児教育は、一人一人の「努力」を見守り、くじけそうな心を励ます。「見守る」とは、安易に手をさしのべない、という覚悟の表れである。この子にはできるはず、と信じて待つのである。まさしく「かわいい子には旅をさせよ」の精神が幼児教育の真髄と言ってよく、この教育は子どもだけでなく「かわいい子ゆえ旅をさせたくない」親の意識改革にも責任を持つ。

幼児教育の「終わり」(卒園)は新たな学びの「始まり」である。これは学齢としてそうなるだけでなく、生涯を通じ真に学び続ける人材を世に送り出す点でそのようになる。ところが小学校に上がると何かがおかしくなる。「成績」があり「評価」が待ち受けるため、言い換えれば「他人との比較」が公然と始まるためである。幼児教育にこのような「評価」はありえない。自分の意志で「(自分と)競う」(自分の課題・試練を乗り越えようと努める)のと、(親や教師によって)「(他人と)競わされる」のとでは取り組みの姿勢に大きな違いが生まれるのである。

大人が(そして本人が)幼児期の「好奇心」をじっくり「見守る」ことができたら、世の中の「知的好奇心」の輝きもずいぶん増すだろう。それには一人一人の大人が「数値による評価」と一定の距離を置くことだ(ⅳ)。今の時代は、子どもたちの「好奇心を育てる」と称し、「妙にいじくる」のである。その結果、年齢を重ねるごとに「学びの輝き」はかげりを増していく。大学合格を至上命題とした学習に終始すると、「始まり」(入学)は「(学びの)終わり」になるだろう。

「よかれ」と思って過剰に手をさしのべることは本人のやる気をそぐ。これは幼児教育では常識である。だが、今の学校教育では「試験」に出る「範囲」を先に示し、あげくは解答の「選択肢」まで用意する。これは本当に「知的好奇心」を守る道ではない。先生は、生徒の突拍子もない質問を歓迎できるかどうか。司馬遼太郎氏は、中学校時代、英語が嫌いであった。授業中に「ニューヨークとはどういう意味ですか?」と先生に質問したら、「そんなばかな質問をするな」と叱られたからである。

「山の学校」の母体は幼稚園である点で、まさに今述べてきた幼児教育の精神に根ざした教育――「学び」の根っこを大事にする教育――を展開している。世間に「大学の附属幼稚園」はいくらでもあるが、「山の学校」は、正真正銘「幼稚園の付属学校」である。では、小学校以上の教育がじっさいどのようなまなざしに見守られて成り立つのか。次頁以下をご覧頂きたい。「ユニークだ」と評して下さるお声も届くが、私の本音を述べると、このような教育の実践がむしろ日本の津々浦々で行われ、「当たり前」(ユニバーサル)だと思われる時代が来てほしい。

(北白川幼稚園長・山の学校代表 山下太郎)

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英語で「級」を意味する grade(グレード)の語源。
このことは前号の巻頭文(「学びの青春時代よ永遠に」)で述べた。
 ここで言う「高い山」とは「困難」の総称であり、学力を問う問題レベルの高低を意味しない。私は幼児期に小学校の学習を先取り「させる」のはむしろ逆効果であると考えている。幼稚園生活は、「親離れ」の試練、人間関係のつまずきの克服など人格形成に不可欠な様々な試練を乗り越える機会に満ちている。この経験を大切にするのが幼児教育である。
試験結果の「解釈」に幅を持たせること。たとえば、試験で5問中3問正解だと60点である。私の父はこれを「満点だ」と言った。「手をつけた3問については全部できていたから」というのが理由である(残りの2問は時間内にできなかった)。「その調子で残りもできたら本当の満点だ」と励ましてくれた(日頃から問題をじっくり丁寧に解く姿勢は評価してくれた)。逆に、漢字の書き取りの最中、書こうと思った漢字がすぐに思い浮かばず「えーっと」と口にしたとき、その答えはたとえ「正解」でも×をつけられた。「なぜできているのに×なのか?」と問うと、「おまえの名前を漢字で書いてみろ」と言う。スラスラ自分の名前を紙に書くと、「それくらい当たり前のようにスラスラ書けないと正解ではない」と言われた。どの言葉も父ならではの解釈を反映していて、子どもにもわかる説得性があった。