山下です。
10年ほど前に「小学校で英語を教えて大丈夫?」という拙文をものしました。当時と今と考えに相違がない点があるとすれば、「教えることで嫌いにさせる」可能性を危惧しているのだという点だろうと思います。セネカではありませんが、「楽しむことを学べ」(Disce gaudere.)という言葉を思い出すこの頃です。だって、先は長いのですから。

ちなみに・・・。

私は中学1年のとき、英語を使わず「英会話」をしました(笑)。市バスに乗っていた外国人が「ShijoKawaramachi?」とバスの運転手に尋ねたのに、運転手は黙秘、乗り合わせた誰も答えようとしません。私は「このバスは四条河原町にいきますか?」と尋ねているのだと理解し(相手は日本語を話しているわけです)、自分も同じバス停で降りるので(あるいはわざと降りたのだったか忘却)、その人の袖を引いて教えてあげたのでした。バスを降りたら、両手で私の手を握りしめ「Arigato」と言われたのを今でも思い出します。英語ができるようになれば、もっと多くの人と話ができる、もっと手助けもできる、と子供心ながら確信したのを昨日のことのように思い出します。

で、結局、技術の前に、それを使う人間の心の問題が大事なのだと思うわけです。小学生を促成栽培しても、それが大人のコンプレックスの裏返しの思いやりでしかないなら、ありがた迷惑な話である、と。本当に大事なことは何か?私も答えはありませんが、よく考えることが大切だと思います。

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