山びこ通信(2013年度・冬学期号)に寄稿されたエッセイを転載いたします。

 

『「かいが」クラスに寄せる想い』 梁川健哲

最近、クラスをしていて少し気がかりなことがあった。

ある生徒が、絵を描く手を休め、時々周囲を見回しながら、画用紙とにらめっこを続けている。そっと近づいていき、「どう?」と声をかけると、「間違っていない?ここに、こういうのを描いてもいい?」と私に問いかけてくる。「勿論! いいよ。こうしてみよう!と思った通りに、描いてみればいいんだよ。何も間違ってなんかいないよ。」そう答えると、「あのね…」と言って、はにかむような仕草をしながら語ってくれた。

その子によれば、小学校の図画の時間、先生に「ちゃんと描きなさい」とか、「間違ってる」というような事を言われたのだそうだ。お友達にも、描いたものが、「それらしく見えない」というような指摘をされたという。本人は、苦笑いをしながら語ってくれたが、かなり傷ついたに違いない。他にも、絵を「訂正された」といった、似たような内容の告白をしてくれた生徒が何人か居た。

私の知る限り、その生徒たちは、例外なく、とても溌剌としており、ゆたかに空想を膨らませる力を持っている。描かれたものは、見る者に思わず笑みを溢れさせるような温かみをもち、ぐっと胸をつかまれるような作品を、共担の彬先生と一緒に何度も目にしてきた。

だから、このような生徒からの訴えは、大変ショッキングであった。「これは、ただ事ではない」と思った。

私は、小学校の図画教育を真っ向から否定しようなどと思わない。その恩恵を受けてきた一人であるし、小学校時代(〜高校時代までも含めて)体験した課題制作の全てが楽しかった。今でも何をしたか、全てを列挙できる。ただし、私は、決して自慢のつもりで言うのではないが、所謂「絵がウマイ」とか「絵がトクイ」と言われる生徒だった。このことは、私の自信になったし、誇りでもあった。

しかし、その一方で、「絵は苦手」「自分は全然描けないから」といって、さじを投げてしまっている友達が、何人も居たことも覚えている。「どうしてだろう? こんなに楽しいのに。」そして同時に、ちょっとした優越感も覚えた。

今になって、よくよく分かる。そうした優越感とは、至ってつまらない、ちっぽけなものであったこと。(そして、それを抱き続けたままもし大人になっていたとしたら、それは不幸であったこと。間違った「誇り」のままであったこと。)また、私が当時あまり注意して見なかった「友達の絵」の中に、無数の素晴らしい絵があったかもしれない、ということ…。

「課題制作」というとき、それは、一定のテーマや物理的条件、狙いを元に、「何かを体験させる」事なのであって、一定の成果(見栄えのする作品)に導くようなものであってはならない(特に子供時代は、と思う。) 大人は、何気なしに「ウマイ」「ジョウズ」と子供の絵を褒めがちだが、ここには落とし穴も潜んでいることを、強調したい。端的に言えば、絵についての「ウマイ(ヘタ)」とは、無数にある絵のあらわし方(見方)における、視点の1つに過ぎない。つまり絵には、絶対的な基準というものが、存在しないのであるから、「合っている」「間違っている」も起こりえない。(間違えた、という言葉は、その絵の作者本人にのみ許された言葉である。)

今一度、「絵を描く」とは、何であるかを問うてみる。私が考えるに、絵とは「目的」ではなく、どこまでも「手段」に過ぎない。何の手段かは、人による。つまり、大切なのは、プロセスそれ自体である。テーマをどう解釈し、条件の制約をどう乗り越えるのか、という「方法」を、各々が工夫を重ね、失敗も味わってこそ、本当に意味があると思う。山の学校「かいが」クラスにおいては、この点に重きを置いている。

強く、何かを想い描くこと、そして、あらわそうと、諦めずに工夫を重ねること。「かいが」クラスで、子ども達に伝えたいことである。それには、必ず何か意味があり、どこかで山の学校の理念とも通じていると信じている。そしてまた、自らが絵を生涯とし、描き続けるという「プロセス」を体現し続けたいと思う。

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