山びこ通信(2013年度・冬学期号)に寄稿されたエッセイをこちらのブログの方にも転載いたします。

 

 『山の学校創設10周年をふりかえって』 山下育子

今から10年前の1月を振り返ると、懐かしい気持ちになります。当時、私は4月から引き継ぐことになった幼稚園と、新たに始める山の学校のことで、始終太郎先生と計画を練る日々を過ごしておりました。幼稚園に関しては、先代山下一郎先生と牧子先生のもとで10年あまりお仕事をご一緒させていただき多くを学んだと思える頃でしたが、一方の山の学校というと、まだ名前も決まらず、ただ太郎先生から、新しい学びの場をスタートしたいというアイデアを聞く一方でした。幼稚園の保護者の方々にご心配やご不安を与えることなく、二つの仕事を無理なく形あるものに結びつけなければならない。私はこのことを肝に銘じながら太郎先生と話を交わす中、1月の末には「山の学校」の名称も決まり、募集要項といえるものもできあがりました。

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これがそのときのパンフレットです。表紙の絵は京都工芸繊維大学の中野仁人先生に描いていただきました。開講クラス名を見てみましょう。小学校の部として、『ことば』『しぜん』『かず』、中学校の部として、『英語の基本』『英語の読み書き』『数の基本』『数の世界』『日本語の読み書き』、高校・一般の部として、『英語の読み書き』『数と自然』『日本語の読み書き』『ラテン語入門』という名前が並びます。『ことば』の低学年は山下一郎先生、高学年は福西亮馬先生(4月から幼稚園の事務として着任)、『英語』と『ラテン語』は太郎先生、そして『しぜん』は私が担当する…。こうして、たった4名のスタッフで船出したのが山の学校の始まりです。

年間スケジュールは、幼稚園の仕事と両立可能な三学期制に設定しました。当時4000人にのぼる卒園児のうち約300のご家庭に出来たばかりのパンフレットを発送したとき、もう後に引けない気持ちになりました。

ここで「山の学校」の名前の由来について書いてみたいと思います。4月からの「太郎塾(一郎先生が提案された当初の案)」開校に向けて準備していた1月のある日、私は、京都丹波の自然と子ども達を描いた『森の学校』という映画を観ました。川やたんぼで泥だらけになりながら遊んで成長する子どもたち。そうした遊びの中から自然の美しさや命の尊さを心に刻みたくましく成長していく男の子。そう、河合雅雄先生(京都大学名誉教授)を主人公とした作品でした。

翻って幼稚園の日常を思い返してみても、子ども達はいつも好奇心の塊で、自然と戯れるとき目はキラキラ輝いています。そんな子ども達にとって自然は生きた教科書であり、夢や希望、死と惜別までを教えてくれる大きな存在です。知識は机の上で学べますが知恵は部屋の中では得られない、ゲームでは命の尊さも判らない…。おぼろげながら抱いていた私自身の考えを見つめ直すきっかけになった作品、それが『森の学校』でした。

映画を見た帰り路、元気いっぱいのおてんばで、山中(瓜生山)を走り回って過ごした自分の幼児期や小学生時代の幸福感がありありと甦ってきて止まりませんでした。そんな気持ちのまま、自宅のある山のふもとに戻って来たとき、小学生用の自転車が二台、石段の下に置いてあるのに気づきました。と、そのとき、元気な男の子二人が声高らかに山道を駆け下りて来たのです。まるでさっき見た映画のワンシーンのようでした。礼儀正しく挨拶して去って行ったのは、卒園した子どもたちでした。

これだ! 私は彼らの後ろ姿を見送りながらひらめきました。こうした子ども達とこの北白川山の自然の中で共に活動し、学びの時間を共有できればどんなに楽しいだろう!帰宅してさっそく太郎先生にこの考えを話したところ、新しい学校の名称は、『森の学校』ならぬ『山の学校』にしよう、とすんなり決まりました(太郎先生は、自分の名前を学校につけるのは窮屈だと言っていたのですが、この名称には大賛成でした)。

幼稚園の新年度が走り出した4月、山の学校もいよいよスタートです。以来6年間、私は『しぜん』クラスの担当として、想像していた以上に充実した取り組みを子どもたちと共有することが出来ました。振り返ると、言葉に尽くせないたくさんの思い出の詰まった日々でした。

手始めに、子どもたちが日頃の自然観察を書き留める「しぜん日記」ファイルを用意しました。クラスの始まりにお互いの発表に耳を澄ますのは至福のひととき。一人一人の絵入りの日記には毎回感想を加えてお返ししました。春のお山の“竹の子掘り”や、よもぎを摘んでの“よもぎ団子づくり”。野菜を植えて収穫したり、いちご栽培をしてからの“いちごジャムづくり”など。大文字山、御所、植物園、京大理学部植物園には何度足を延ばしたか知れません。子ども達と山中をくまなく探検したり、歓声を上げて崖すべりを体験したり。森を護るフォレスターズとして、落ち葉の掃除や古木の伐採、薪づくりなどの諸活動、園庭つづきの森を「ひみつの森」と名付け、基地づくりに精を出したことも忘れがたい思い出です。

山の学校全体のイベントもいろいろ企画しました。夏休みには「ワクワクしぜん教室!」と題して、幼稚園園庭〜瓜生山山頂経由~狸谷不動尊までを親子で散策したり、比叡平から大文字山三角点を目指したこともありました。山中に『しぜんクラス』で作った木製の記念プレートを全員で掲げたことも懐かしい一コマです。

幼稚園の卒園児であるアリ博士の山岡亮平先生から子ども達に生きたアリの生態について教えていただいたり、松本紀生さん(アラスカの自然写真家)をお呼びしてフィルムシアターを観たことも…。いつも新企画を考えながら、ワクワクしながら手探りで駆け抜けてきた6年間の日々が走馬燈のように思い出されます。

2008年1月。太郎先生が過労で入院。退院後、太郎先生が担当していたクラスはすべて志のある若い先生方に引き継いでもらい、今に至ります。私も、その翌年度から、『しぜん』クラスを若い世代の先生に託すことに決めました。こうしてクラスの担当から離れて早4年。年々、志を同じくする若い先生方が集まって下さり、今では15名ほどの先生が各科目の授業をして下さっています。

クラス便りは、学期毎に発行する山びこ通信にまとめてお伝えしてきましたが、下の写真にありますように、2003年(7月第1号発行)~2012年(2月号)までの約7年間の山びこ通信は、園内の印刷機を使い、手折り作業でつくったものでした(写真下左)。2010年6月号より印刷会社に業務を依頼することになり、以来、色刷りの通信誌として、全国の関係者のお手元に発送させていただいています(写真下右)。

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現会員の大勢が学んでいる山の学校の建物は、寺子屋風の木造建物(母屋)ですが、2003年の開校当初は、大変老朽化した家屋に過ぎず、せいぜい玄関入り口の六畳ほどの畳の間だけが使用可能なスペースでした(暖房器具や空調設備、電話も何もない状態でした)。その向こうは「開かずの間」ならぬ「開けてはならぬ間」があり、さながらお化け屋敷(?)の趣さえありました。目隠しに明るいカーテンを吊したり、いろいろ苦心したことも今となっては懐かしい思い出です。会員が大きく増えた2005年の春、一ヶ月をかけてようやく現在の建物の姿に改築した次第です。入り口カウンターを設置し電話回線を敷き、その奥に新しく3つの教室をつくりました。また、一般クラスの会員増に対応するため、2010年春には「母屋」の向かい側に大人用の「離れ」の部屋を用意しました。この部屋からの眺望は抜群で、目の前に京都市街、遠方には西山も望める落ち着いた雰囲気の空間です。大人の方々の学びの場として相応しく、今では多くの会員にご利用いただいています。

4月からいよいよ11年目を迎える山の学校です。小学生から一般までの会員が、生涯学びの喜びを共有できる、多くの可能性を秘めた学舎であり続けたい、と願っています。

 

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