岸本です。

今日は、生徒さんが来週の3/12(火)の都合が合わないということで、その補講として行いました。

早いもので、今回で「中学ことば」クラスも最後となります。

今回は、伊丹万作の『映画と民族性』という作品を読解、議論していきました。

 

この作品は、太平洋戦争末期に書かれた作品で、外地向けの映画を製作しようとする政策への批判として書かれたものです。

伊丹は、表層的な外地向けの映画を作ろうとする案と、とりあえず良い映画を作りさえすればよいという二つの案について、それぞれの欠点を主張します。

前者の場合、そもそも物事の本質を表現するという映画ですらなく、後者の場合でも、国内において芸術性が高い映画が必ずしも海外でそのように評価されるとは限らないというのです。

彼はこうした批判を通じて、映画(そして芸術)には国際性と民族性があり、真の映画とは、民族性を第一に考えたものだという主張を展開します。

この作品における「民族」という言葉の意味は明示されておらず、また当時と現在ではニュアンスも異なっていたため、正確な意味は図りかねますが、このクラスでは、生徒さんとの議論から、その土地、人々の持つ風俗や習慣のようなものを想定することにしました。

そのように考えると、民族性とは映画を見る人々の性質、すなわち「文化」ともいえるでしょう。

生徒さんとの議論で、伊丹の主張は次のように解釈されました。

映画における民族性の重視とは、それぞれの文化に特化した映画を認めることです。

よって、外地向けの映画とはそれぞれの文化の本質を描いた映画でなければならず、万人受けするような一種類の映画をさすのではない、と。

彼の映画論・芸術論を、素人である私たちが完全に理解できたとは思いませんが、このように解釈するならば、彼の主張は現在の社会でも通ずる部分があるように思えます。

生徒さんには、この作品における「国際性」と「民族性」を「グローバル化」と「ローカライゼーション」と比較してもらいました。

単純な「グローバル化」、すなわちある一種類を世界共通にしようとする動きと、「ローカライゼーション」という各地方に適応しようという動きが、伊丹の主張に重なる部分があることも見えてきました。

さらに議論が進み、すでに戦中にそのような考えがあったことの背景として、当時の大日本帝国が、現在の日本国の範囲を超えて支配領域を拡大させていたことまで指摘することができました。

現代日本において民族問題は無関係だと思いがちですが、過去においては(そして一部では現在でも)日本の抱える問題点の一つだったという事実は、今回の議論から得られた成果だと思います。

 

残りの時間は、記事の読解を行いました。

生徒さんは、産経新聞の「震災がれき処理、46%終了 岩手、宮城は来春完了見込み」という記事に注目していました。

震災から2年たとうとする今でも、がれき処理が半分も進んていない現状を知り、前回読んだ寺田寅彦の『天災と国防』で言われていたように、文明の進歩が天災の被害を増大させるという指摘を思い起こすと、生徒さんは語っていました。

100年近い前の文章が、現在の状況を予見していたことには驚きますが、このことは寺田が唱えた災害対策が現在でも有効である可能性を示すでしょう。

重要なのはもちろん実践ですが、そのことを思い起こさせる文章の力も同時に重要だと感じました。

今年度はこれで最後ですが、生徒さんが読む力と書く力の大切さに気づき、その力の向上に少しでも貢献できていれば、一年という時間をこのクラスで積み重ねたことは、決して無駄ではないと考えています。

 

なお、このクラスで使ったテクストは、「青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)」を利用しました。

この場を借りて、お礼申し上げます。

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