岸本です。

今年最後のクラスでは、『人間失格』第三の手記で難しい場面を読んでいくことになりました。
その場面は難しくはありましたが(だからこそでしょうが)、重要な場面でもありました。

さて、シヅ子の下で暮らしていた葉蔵は、ある日堀木がかけた、「世間」がゆるさないという言葉をきっかけに、今まで何かおそろしいもののように考えていた「世間」が「個人」ではないか、という思想めいたものに行き着きました。
この「世間とは個人ではないか」という思想が、読解の難しい場面の一つです。
これを理解するには、今までの葉蔵が抱えていた「世間」への恐怖を思い出したうえで、「世間」という漠然とした言葉を使う人間が、自らの考えをその「世間」に託しているだけだということに気付く必要があります。
つまり、個人が「世間」という言葉を利用して、自らの意見に説得力を持たせるレトリックであると、葉蔵は気づいたのです。
私からいろいろ問いかけをしながら、このような思想めいたものを少しずつ理解していきました。

さて、「世間」というレトリックに気付いた葉蔵は「自分の意思で動くことが出来るようになりました」。
といっても、仕事が終わるとお酒を飲みに行き、泥酔して帰ってくるとシヅ子に絡み、眠りにつくというのが日常でした。
そんなある日、「ギイ・シャルル・クロオ」の詩に出会うと、自らがそこに詠われた、慣例に従うだけの蟾蜍であると感じます。
それを打破しようとさらに「荒んで野卑た酒飲み」になるのですが、自らがシヅ子ら親子の幸福を壊してしまうことを恐れ、シヅ子の家を去ってしまいました。
それは、「世間」が「個人と個人の争い」であり、その中では「一本勝負」に頼らなければならないと考えるようになった葉蔵にとっての、「一本勝負」だったのです。
「世間」にあらがった葉蔵ですが、「世間」からは何の反応もありませんでした。寧ろ、世話になったバーでは、ちやほやされるのです。
ここにきて、葉蔵は「科学の嘘」・「統計の嘘」・「数学の嘘」を信じて、馬鹿正直に「世間」を恐れていた過去を笑うほどの境地に達するのです。

あらすじが長くなりましたが、この葉蔵の考えの変化が、第三の手記の葉蔵の行動原理となります。
細かな表現技法は難しいですが、大きな流れとして「葉蔵が今まで恐れていた世間が、思っていたようなものではなかった」ということを覚えてください

それによって、今後の展開が理解しやすくなるでしょう。

読むのが難しいとの声が聞かれましたが、このクラスで疑問点をどんどん出してください。
そして、冬学期中には『人間失格』を読み終えられるようにしたいですね。

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