高木です。

今日は岸本先生がお休みのため、私が代講を務めさせていただきました。

 岸本先生は、日頃から、テクストを読んで、それについて議論する、というスタイルでクラスを進めておられますので、私もそれにならいました。
 ただし取り上げるテクストは、私の代講が一回限りだということもあり、いつもの『歴史小品』とは別のものを選びました。一回で読み切ることができて、それでいて鮮烈な奥行きのあるテクスト、ということで、尾形亀之助の『顔がない』という掌編を選びました。本当に短いので、全文をここに引用します。

    顔がない                       尾形亀之助

  なでてみたときはたしかに無かつた。といふやうなことが不意にありそうな気がする。
  夜、部屋を出るときなど電燈をパチンと消したときに、瞬間自分に顔の無くなつてゐる
   感じをうける。
  この頃私は昼さうした自分の顔が無くなる予感をしばしばうける。いゝことではないと
   思つてゐながらそんなときわたしは息をころしてそれを待つている。

なんの予備知識も持たずにただ読んでもらって、第一印象をきいてみると、「なぜ作者は『顔がない』というテーマで書いたか?」、あるいは「なぜ顔がなくなったか?」ということに疑問を持たれたようでした。そこで次に作者の短命で非業な生涯について紹介し、この「顔」という言葉がいったい何を意味するのか、ということについて考えてみました。すると、「顔」とは「存在」のことではないか、という声があがりました。顔がなくなるということは、存在がなくなるということ、つまり死ぬことである、と。
 このようにして、文章中に明示されてはいないものの、この『顔がない』というテクストは、どうやら「死」をテーマにしたものである、という点について意見が一致しました。
 そして、以上のことをふまえて、この作中人物の「私」は、どのような人物か? と問うてみました。すると、お一人が、この人物は消極的だ、と意見してくれました。「その理由は、存在(顔)が無くなる瞬間を何度も感じているからです。」 もうお一人も、この「私」は顔が無くなるのを待っているのだから、やはり早く死にたいと思っているのではないか、と言いました。
 そこで、「本当にそう思う?」と、一度こちらが問い返してみました。すると、お二人とも「う〜ん」という顔をされました。そのまま、しばし時間が経過した後、さっき「消極的」と言った生徒さんが、不意に、繰り返しテクストを読んでいた顔を上げて、「逆なのかも」と言いました。「積極的な人物かもしれん。だって顔がなくなる瞬間を『息をころして』『待つている』から。彼は存在が無くなること(すなわち「死」)に、全面的に立ち向かおうとしているんじゃないか。」
 ここに発想の逆転が起こりました。また、もうお一人も、死を身近に感じているにもかかわらず慌てないし騒がないところをみると、「私」は「冷静」な人物なのではないか、と意見してくれました。しかしここで、「私」が「冷静」である、ということについては、意見が分かれました。たしかに「息をころしてそれを待つている」ときの「私」は、物陰に隠れて機会をうかがうハンターのように、「死」がそこに浮かびあがるのを冷静に待つ者でもありますが、同時に、「死」の予感を「しばしば」うけるのは「私」が冷静さを欠いた不安な状態にあるからだと言うこともできるのです。
 このように「死」をめぐる議論が続くなか、さらにお一人がそもそもの前提を覆すような根本的な疑問を提示してくれました。それは、「『なでてみたときはたしかに無かつた』と言うが、無かったら撫でられないのでは?」ということです。たしかにその後には「といふやうなことが不意にありそうな気がする」と続くわけですから、こう想像できる現在の「私」には顔が在ります。しかしいつか顔が無くなるその瞬間に、それでも「私」は撫でているとすれば、その撫でているものとは、いったい何なのでしょうか? 一回限りのクラス。この解答無き問いについては、無期限の宿題としました。

 一人の人間がどのように死に対峙するか。その方途はさまざまですが、しかしどのようにしても死に向きあうときには、すでに私たちは生について考え始めているのではないでしょうか。
 たしかに生徒さんにとっては、禅問答めいたこうした議論は少し難しいものだったかもしれません。しかしあのたった5行の掌編から、それを何度も読み返しながら、こうして豊かな議論を展開させたのも、まぎれもない生徒さんたちでした。

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