西洋古典を読む(2021/5/19)(その3)

福西です。

(その2)の続きです。

脱線話です。

「高校生になって、何か変化がありましたか?」という質問に対し、受講生のA君は「プラトンの『国家』(藤沢令夫訳、岩波文庫)を読みました」と報告してくれました。

 

「もし他の人に『国家』を勧めるとしたら、どの章がおすすめですか?」と聞くと、A君は次のような主旨で話してくれました。

前半の章ですね。後半の章は、哲人王やイデアといった重要な内容が語られますが、国家の規模が現代とは違うので、理想と現実との乖離を埋めにくいだろうと思いました。一方、前半の、ソクラテスが論客を次から次から論破するくだりは、『今でもこんな議論あるよね。また、こんなこと言う人、いつになってもいるよね』というものばかりです。その意味で、むしろ前半の方が『パターンをつぶしておく』という意味で、現代人には意義があるかもしれません」

と。後半よりも前半! A君は逆説の名手だなと感心し、しきりと納得を覚えました。

私は、『国家』を読んだ時、前半が「前振り」にしか思えず、「はやく本題に入らないかなあ……」とあせりながら読んでいたことを思い出します。

上のA君の見識でもって、私も「もう一度前半の方を注意して読んでみよう!」という気持ちになりました。

 

また、以前(緊急事態宣言前)の話になりますが、A君は新しいクラブ活動のことを話してくれました。

実は、これこれのクラブに入ったのは、直観で決めたことでした。

理屈や必然で行動していると、経験できる範囲が「想定内」におさまってしまいます。

直観で動くと、予想外のことがたくさん経験できて、嬉しいです。

と。その話しぶりが、まぶしかったです。

十代の一秒はただの一秒ではなく、その後のすべての時間の基礎なのだと感じました。

すべてにおいて、応援しています!