塩川です。
【教養英語】初回の授業が終了しました。参加者していただいた方々、お疲れ様でした。授業では、訳語の検討を中心としながらも、ごく簡単に内容の解説も行いました。人に教えるということの難しさを痛感しているところです。受講生の方々の声を取り入れながら、よりよい授業を目指していければと思います。

英語についてここで解説することはあまり意味を成しませんから、内容についてごく簡単にご紹介したいと思います。今回のポイントは「創造の教義は、創世記第1章・第2章における世界創造の物語だけでなく、旧約聖書全体に埋め込まれている」ということでした。例えば、創世記2章7節では「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(新共同訳)と語られています。神が人間を土から作ったというこのモチーフは、預言書の中にも確認することができます。

しかし、主よ、あなたは我らの父。
わたしたちは粘土、あなたは陶工
わたしたちは皆、あなたの御手の業。
(イザヤ書64章7節)

McGrathは、捕囚期の預言書が創造の教理に訴えることで神の全世界に対する主権を主張していると理解しています。そこにおいて、神は単にイスラエル王国というある土地だけにかかわるのではなくて、新バビロニア帝国をも含むほかの人々の上にも臨むのです。このことから、McGrathは、捕囚期の預言書において、創造の教義は解放の希望の基礎となっていると述べています。この点をやさしく言い直せば、全世界を神が創造したという考えによって、古代イスラエルの人々は、故郷を離れてなお自分たちは神の庇護の下にあり、それ故、神は隷属状態から自分たちをお救いくださるはずだと考えられるようになった、ということです。創造の教義は、それぞれの文書群において担う役割を変えながらも、旧約聖書全体に関わるものだとMcGrathは言っていますが、捕囚期の預言書においては、解放の希望の基礎という役割を担っているのです。

この文脈で、McGrathは、バビロンの神々は、イスラエルの神の力と権威を欠いており、単にその地方に特有の創造物に過ぎないと言っています。このことは、古代イスラエルの宗教が捕囚の時代に拝一神教から唯一神教へと変化したという旧約学の学説と重ねて理解できると思います(山我哲雄『一神教の起源:旧約聖書の「神」はどこから来たのか』筑摩選書、2013年、とりわけ第8章)。拝一神教が、神が複数存在することを前提としながらもただひとりの神を信仰する宗教の在り方であるのに対して、唯一神教は、神がただひとりしか存在しないとする在り方です。古代イスラエルの宗教はもともと拝一神教的な性格を持っていたけれども、歴史の中で唯一神教へと姿を変えていくのだと言われています。そして、イザヤ書40章から55章の著者とされる第2イザヤこそその思想を鮮明に打ち出した思想家なのだそうです。実際、McGrathは、これに関連した箇所で、イザヤ書40章から55章までを参照するよう促していますから、やはり以下の箇所が念頭にあったのではないかと推察されます。

あなたたちはわたしを知り、信じ
理解するであろう
わたしこそ主、わたしの前に神は造られず
わたしの後にも存在しないことを。
(イザヤ書43章10節)

また機会があれば、授業の雰囲気を紹介してゆきたいと思います。
ご関心のある方は、どうぞお仲間に加わってください。

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