伝えたいのは「言葉そのもの」ではないということ

 

 入角晃太郎です。先日、abc予想を解決したことで知られる望月新一先生のブログ、「新一の『心の一票』」(https://plaza.rakuten.co.jp/shinichi0329)を読みました。このブログは一般読者に向けられたものなので、数学を専門としない人にも読むことができます。私は望月先生のお考えに触れて、大変深い感銘を受けたので、この記事を書くことにしました(ちなみに、望月先生はラテン語とギリシア語を学んだ経験があるそうです。望月先生と山の学校との共通点を見つけて、私は少し嬉しくなりました)。
 望月先生は、異質な者同士のあいだにおいて、「壁の設定」と「壁を通り抜ける心」が重要であると書いています(望月先生はこれを「心壁論」と呼びます)。「ボーダーレス」といった考えを望月先生は好まず、逆に、人々のあいだに横たわる「壁」の存在の重要性を説くのです。私は、数学を教える者として、とても共感を覚えました。
 私は、少なくとも数学という教科を教えることに関しては、「知識や考えを植え付けること」というイメージを持ったことがありません。数学を教えるのに、教師と教え子とのあいだに横たわる「言語」の壁を取り払って言葉を注ぎ込む、といった必要はまったくないのです。ただ、だからこそ、数学が伝わるとき、生徒は「言葉そのものから離れること」が必要になります。
 例えば、中学数学で出てくる三平方の定理は、本によって、「x^2+y^2=z^2」とも、「a^2+b^2=c^2」とも書かれます。xやyなどの文字は何であってもよいからです。ただ、「何であってもよい」ですが、白紙にするわけにはいかないので、何かしらで表現する必要はあります。それが、(x,y,z)や(a,b,c)といった具体的な語彙であるわけです。しかし、使われている語彙に引きずられてはいけません。「x^2+y^2=z^2」も「a^2+b^2=c^2」も、使っているボキャブラリーは違えども、表現しているのは、同じ「三平方の定理」なのです。つまり、これらは別々の語彙を通して、まったく同じことを描いていると言えます。私たちは、偶然的に手元にある言葉を用いてしか、表現することはできません。しかし、私たちの思考がすべて、こうした言葉に縛られているわけでもありません。私は日本語を通してしか思考できませんが、その思考の先には、より普遍的な、透明な構造もあるはずだと考えています。そうしたもののひとつが数学だと思います。
 私と生徒さんとは別々の人間ですので、当然そのあいだには壁があります。しかし、私の「言語」と生徒さんの「言語」が違うものであったとしても、それぞれの「言語」を通して同じことを意味することができると私は思っています。だから、私の伝えたいことは「言葉そのもの」ではなく、「それが言おうとしていること」なのです。この伝達が成功するためには、「汲み取る力」が要求されます。「法律に従え」という法律はないでしょうが、私たちは法律に従っています。これは、私たちが「法律に従え」という非明示的なメッセージを汲み取っているからです。すべてを言葉にすることはできないし、また、仮にできたとしても、言葉自体はそれを読ませる強制力を持ちません。例えば、「この文章を読め」という文章は、読まれなければ絶対に読まれませんし、逆に、読まれるときは、そう命じられる前に既に読んでいます。近頃、読解力の低下が問題になっていますが、読解力とは、書かれたものに対してだけでのものなのではありません。書かれていないものを読み込む力もまた、重要な読解力なのです。
 私はこの文章で、「伝えたいことは『言葉そのもの』ではない」ということを、言葉で書いてしまっています。したがって、書かれたことしか読もうとしなければ、それは言葉に過ぎませんので、私の話は「通じない」でしょう。壁を維持しつつ、つまり、異なる他者を敬いつつ、それでいて通じ合うためには、「書かれたものしか読まない」、あるいは「書かれた言葉に拘泥する」のではだめなのです。これから数学を学ばれる生徒さんには、数学の勉強を通して、こうしたことを伝えてゆけたらなと思います。