切なさを肯定して生きること(その1)

福西です。

私は『西洋の児童文学を読む』というクラスを受け持っています。それに寄せて、児童文学を読むきっかけとなったことを書いてみます。

私が大学生になって一番うれしかったものの一つは、大学図書館が利用できることでした。それまで自分が見た中で一番大きな図書館だったからです。一冊一冊を書架から取り出すことが、宝島の地図を手にするような感覚でした。

ある時、『河合隼雄著作集』(岩波書店)が配架され、それを借りるのが楽しみになりました。その中の一冊、『児童文学の世界』(河合隼雄著作集4、岩波書店)の序説に、次のような一文があります。

児童文学の名作を読むと、心を洗われたように感じたり、癒しを感じたりする。あるいは生きてゆくための勇気を与えられたように感じるときもある。

この言葉がきっかけで、私は児童文学作品を意識して読み始めたのでした。

河合隼雄がなぜ自分は心理療法士なのに児童文学を読むのか、そのわけを次のように述べています。

私は心理療法家の必読書として、児童文学を読んでいる。(…)たましいのことについて知るのは、知的ないとなみではなく、自分の存在全体にかかわることである。(…)これらの作品に向かい、自分の存在を揺るがされるような体験を味わう。そのような体験を通じてこそ、たましいについて少しずつ「知る」ことが可能となる。そして、それは極めて個別的特殊的でありながら、普遍へとつながってゆく不思議さがある。一作一作がすべて異なっていて、その個別性につながってゆくと普遍へと導かれるのである。

つまり、頭でっかちでは入ることのできない領域があって、そのアプローチの一つが児童文学なのだというわけです。

私も、その「普遍」を知ることにあこがれたのでした。

その2へ続きます)