開講に向けて

初めまして、塩川です。春から【教養英語】という講座を担当させていただく運びとなりました。基礎的な英語力の点検と、キリスト教に関する入門的な知識の獲得を目指す講座で、テクストは A. McGrath, Christian Theology:An Introduction, 6th Edition, 2017. を使います。

「山の学校」では、学ぶ楽しさを大切にしていると山下先生から伺っております。丸山眞男は、あるメモに「「遊び」としての学問、遊びに専念する場としての大学」と書き付け、次のように述べています。

対象としてはどんなに切実な現代性をもつようなテーマについても、「アカデミックな」研究にはあそびの精神が必要であり、意味がある。問題解決の具としてではない学問、ただ無限の対話(自己内対話をふくむ)、ないしだべりとしての学問が、どこか分かぬ時と場所で「生きて」来るものなのだ。
(丸山眞男『自己内対話』みすず書房、217頁)

山の学校で大切にされている教育の理念は、丸山が大学について述べていることとどこか通じ合っているように受け止めております。実際、北白川幼稚園の園児たちは自然と文化にたくさん触れ、遊びの中で楽しく学びを深めていると伺っています。胸いっぱい詰め込んだ風、ぬくぬくした落ち葉の毛布、すばしっこいトカゲの潜む草藪、耳馴染みのない鳥の歌。野山に分け入り自分の力で見つけた言葉たちはピカピカしています。思い出してみてください。あの頃、知識と思考は学ぶ喜びと分かち難く関係を結んでいて、どんなに乏しかろうが、どんなに拙かろうが、疑いなく豊かだったのですから。

【教養英語】でも、学ぶ楽しさを基調に授業を行いたいと考えています。ところが、我々が扱うのは、先述の通り、大学生向けに執筆された教科書です。私自身、子ども時代を振り返ってみれば、教科書のタイトルにしばしば現れる「たのしい」という文句ほど嘘くさいものもそうありませんでした。しかし、教科書を楽しく読むという試みはまったくの無理筋というわけでもなさそうです。思うに、教科書を読むことは大人たちの冒険譚を聞くようなものなのです。あの池にはそれはそれは大きな鯰がいる、とか、こっちの木陰には色とりどりの木の実が隠れていてジャムにすると美味しい、とか。大人たちは実際に自分が実際に見てきた世界を楽しげに語ります。そんな話をされたら、私たちも黙ってはいられません。だって大人たちばかり楽しい体験をしてきたなんて、そんなずるいこと許されていいわけがありません。自分も冒険に出かけたい!というあのワクワク感が教科書を楽しく読むための生命線だと思います。

McGrath のお話を私なりに面白いと思う仕方でお届けできるよう頑張りたいと思います。今期の学習テーマは、キリスト教の神概念です。キリスト教の伝統は神についてにどう語っているか。McGrath の説明に耳を傾けてみましょう。さしあたりは「悪の問題」の項目に取り組むことを目標としています。今後は、関連するトピックに触れていく予定です。

ところで、かのアウグスティヌスも「それでは、わが神よ、あなたは何者にましますか」(『告白』第1巻第4章、山田晶訳)と問うています。我々もこの問いに導かれて教科書に取り組むのでした。しかし、どうやら、ここには、神について語るという営みそれ自体に向けられた問いが潜んでいるようです。

だがいったい私たちは、何をいってきたのだろう。わが神、わが生命、わが聖なる甘美よ。だれでもよい、あなたについて語るとき、その人はいったい、何を語っているのでしょうか……
(アウグスティヌス『告白』第1巻第4章、山田晶訳)

いまだかつて、神を見た者はいない(ヨハネ福音書1章18節)はずなのに、キリスト教は神について何らかの積極的な内容を語ってきた。それはいったいどのような営みなのだろうか。先日のガイダンスでは、この問題を手掛かりに McGrath の記述を拾い読みし、<神は母である>という(不適当に思われる)語りの意義についてご紹介しました。ご参加いただいた方々、ありがとうございました。教科書を読む楽しみを多少とも垣間見ていただけたのではないかと期待しています。【教養英語】は、受講生の皆様には、知的な読みものに英語で触れる機会を持っていただくための講座です。受講生の皆さんにもっと勉強してみたいと思っていただけたらこの講座は大成功と相成るわけです。私も皆さまに刺激を受けながらあれこれと勉強したいと思います。ご関心を持たれた方はどうぞ仲間に加わってください。実際の講座が始まりましたら、より具体的な授業の雰囲気もご紹介してゆこうと思います。