2021-04-04 受け止める場としての「古典」

山下です。

私は「三つ子の魂」を百まで守りたいといつも言っています。

子どもの声に耳を傾けるとハッとさせられます。

「裸の王様」の話を思い出してよいかもしれません。

幼稚園では俳句の時間があり、芭蕉や蕪村の俳句を口ずさみます。

慣れた子どもたちは自分の心情を5,7,5に託して表現します。

先月卒園式があり、その日の心情を「詩」と「絵」に表して渡してくれた男の子がいました。

そこには「すっきりとしたさみしさ」という言葉が使われていて、ハッとしました。

大人でもうまく表せない人生の節目の感情を見事に表していると感じました。

この男の子だけがここで表されている感情を有していると言うのでなく、6歳の子どもたちの心情を彼が代弁したとみるべきでしょう。

肝心なことは、この気持ちを「表す場」を彼がもっていたということです。

その「場」とは、俳句という伝統の様式であり、芭蕉や蕪村の作品という「古典」は彼の心の対話者でもありました。

小学校にあがり、様々な出来事があるでしょう。

喜びも悲しみも、それをしっかりと見定めて表現できる場をもつことは大切です。

親が子の言葉に耳を傾け、頷くだけで心はすっとします。いつもそれが可能とはかぎりません。

未来の自分に向けた手紙のように、白い紙に向かって自分の心情を文字で残せるなら、それも自分を「受け止める場」たりえるのではないでしょうか。

絵画や造形表現、自然の中に身を置くことも、それに代わることになるでしょう。

数のもつ不思議に心を奪われることも、人生の意味を巨視的にとらえなおす機会につながるでしょう。

「山の学校」の「ことば」「しぜん」「かいが」「つくる」「かず」といったそれぞれの取り組みのエントリーを読みながら、わたしは子どもたちの感受性豊かな心を「受け止める場」がそこにあると確信します。

ひるがえって、中学はどうでしょうか、高校はどうでしょうか。

理想という言葉があります。時代を超越し、今なお人類の宝とされる言葉の記録が古典です。

現実を疎かにしてよいわけはありません。しかし、現実への対応だけが人生ではありません。

古典を前にして、人は自由になれます。

先生も生徒も、「ともに」古典を読み、「ともに」心を開き、「ともに」感動をわかちあう。

現実のかなたにある「理想」を目指し、子どもは信頼できる大人とともに、一歩一歩前進したい気高い存在です。

山の学校はそのような子どもたちにとって信頼される「場」であり続けたいと願っています。