『フランス語講読』A・Bクラス便り(2021年3月)

山びこ通信2020年度号(2021年3月発行)より下記の記事を転載致します。

『フランス語講読』A・B

担当 渡辺洋平

 フランス語講読Aの授業は、昨年から引き続き哲学者アンリ・ベルクソン(Henri Bergson 1859-1941)の『意識に直接与えられるものについての試論 Essai sur les données immédiates de la conscience』(1889)を読んでいます。この原稿執筆の段階で最終章の終盤に差し掛かっており、春学期には新しいテクストに入るかと思います。何になるかはまだ決まっていないのですが、決まり次第山の学校のWebサイト等でお知らせしたいと思います。またフランス語講読Bの授業は現在休講中なので、フランス語で読んでみたい本やテクストがある方はご気軽にお問い合わせください。進行ペースなどは調整いたします。

さて、前回の『山びこ通信』ではベルクソン独自の時間概念である「持続durée」について書きました。今回は、その持続が自由とどう関係するのかについて考えてみたいと思います。

自由とは何でしょうか。あるいは私たちが自分は自由であると考えるのはどのような場合でしょうか。自分がしたいように行動できる時でしょうか。例えば、多くの人は腕を上げようと思えば上げられるし、仕事や学校に行くのが嫌ならば行かないこともできます。もちろん無断で学校や仕事を休めば、叱られたり、罰を受けたりすることもあるでしょうが、おそらく多くの人が自分の思うように行動できる状態を自由と考えるのではないでしょうか。この意味で自由とはきわめて単純な事実であると言えます。それではこの自由は、時間とどう関係するのでしょうか。

それはまず、時間は逆戻りすることはできないということと関連します。過ぎ去った時間を元に戻すことができないというのは誰もが人生のうちで経験していることでしょう。後悔という感情は、時間を戻すことができないという無力感から生まれるのだとも言うことができます。しかしベルクソンによれば、自分が行ったものとは別の行為を行うこともできたと考えるのは、ある行為を行った後で、時間の流れを線として、つまり空間的なものとして思い描く場合だけです。時間の流れを線のように考えてしまうから、私たちは事後的に、ある一点で別の方向へと分岐できたかもしれないと考えてしまうのです。実際、ベルクソン以前の哲学者は、自由を実際に行ったものとは別の行動をすることもできたという意識に帰していました。しかしそのような意識は、暗に時間を空間的にとらえてしまっているのです。

また、逆戻りできないと言うことと同様に、時間においては同じ現象が2回生じるということもありえません。毎日同じことを繰り返しているように見えたとしても、厳密には昨日と今日のあいだには一日分の時間が流れています。この流れた時間の分だけ、私たちは変化しているのであり、まったく同じ現象は意識に関するかぎり起こりえません。したがって、ある行為の内的な原因を知ることは、その行為を行った時点でのその人になることであり、それは不可能であるとともに不条理です。

かくして空間と明確に区別される時間は、不可逆で、その一瞬一瞬が私たちの人格を形成するものだということになります。そしてベルクソンが考える自由とは、このような空間と区別される時間、すなわち持続から帰結するような行為のことなのです。したがって、ある意味では私たちはつねに自由であるとも言えますが、しかしこの自由にもさまざまな度合いがあるということにもなります。単に習慣になっているという理由で行う行為もあれば、他者に命じられているから行う行為もあります。やらなければいけない仕事があることもあれば、身体的に不可能なこともあるでしょう。ベルクソン自身も自由には度合いがあるということを認めており、真に自由な瞬間とは稀なものであるとも言います。そして真に自由な行為とは、芸術作品のようだとも付け加えています。

この意味でベルクソンにとって自由であることと創造的であることは結びつくのですが、彼は後にこの創造的なエネルギーを生物の進化のうちに見いだすことになります。それこそが後の『創造的進化』(1907)の主題となる事柄なのですが、それはまた別の話です。

フランス語講読Aの授業ではかなり長きにわたってベルクソンを読んできましたが、それも今回の『意識に直接与えられるものについての試論』で終わりになる予定です。冒頭にも書いたように、次のテクストは決まり次第お知らせしますので、興味がある方はご気軽にお問い合わせください。フランス語講読Bの方も随時募集していますので、よろしくお願いいたします。