福西です。

『モモ』(エンデ、大島かおり訳、岩波書店)を読んでいます。

第三部<時間の花>に入り、13章「むこうでは一日、ここでは一年」を読みました。

物語のちょうど折り返し地点に来ました。

題名の通り、モモが目を覚ますと、ホラのところでは一日しかたってないはずなのに、もとの世界では一年が経っています。まるで浦島太郎のような出来事に、モモはとまどいます。

モモはさむさにブルっとからだをふるわさえて、ぶかぶかの上衣のまえをかき合わせました。(p223)

この表現は、7章にもありました。(灰色の男がモモのところに人形のセールスにくるシーン)。

モモはだまったまま、ぶかぶかの男ものの上衣のまえをぎゅっとだきあわせました。(p120)

つまり、モモのいない間に、町がすっかり灰色の男に侵食されたことをうかがわせます。

(ちなみに、1章にも同じ表現があります。それは受講生のHさんが見つけてくれました)

 

第二部の終わりで、モモは<時間の国>で見聞きしたことをみんなにも話したくなります。けれども、ホラはこう諭します。

「それを話すためには、まずおまえの中でことばが熟さなくてはいけない」

と。「待つことだ」と。

モモは「待てる」と言い、眠りにつきます。

そして眠って一日がたったと思ったら、一年だった、という展開です。

ここから物語の後半のテーマである、「ぬすまれた時間を人間にとりかえすこと」がはじまります。

 

そのことと関連して、クラスでは、プラトンの「洞窟の比喩」を紹介しました。(説明はここでは長くなるので省きます)

時間について真実を知り、「みんなのため」に行動を起こすモモは、洞窟の外に出て太陽を知り、洞窟にふたたび戻って仲間にそれを知らせようとする者に似ています。そしてその者には、太陽を知らない仲間から、洞窟内の秩序を乱す者として敵視され、殺される危険があります。

これは深読みかもしれませんが、ホラの「待て」という忠告は、私には二重に聞こえました。モモのことばが熟し、かつそれを聞く側の準備も整うまで待たなければならない、というように。

みなさんはどう思われることでしょうか。

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